藍瀬智歌

記事一覧(32)

逆向きの傘に落ちる雨_1

 火葬場は花の薫りがした。茉莉花。あなたが好きな花だった。オルゴールの流れる部屋で、わたしは何度もその薫りに包まれた。あなたが聴くのはオルゴールだけだった。人の声も楽器も嫌なの、といつか冗談めかしてあなたは言った。落ち着けるのはオルゴールを聴いているときだけ。  理由を尋ねてもあなたは微笑むだけで答えてくれなかった。ユカの声は好きだよ。子どもを慰めるみたいに言ってわたしの髪を撫でた。納得したわけではなかったけれどあまり深入りするのも気が引けた。あなたに嫌われたくなかった。わたしにとってあなたは初恋の人であり、初めての恋人だった。「秋元様」 火葬場の担当に呼びかけられて、わたしは瞬きした。いつのまにか火葬は終わっていたらしい。空気には何の匂いもなかった。担当に導かれ、あなたの骨を拾い上げる。現実感がなかった。いままでに涙を流しすぎたせいかもしれない。どうしてもあなたの骨だと思えなかった。 骨上げが終わり、遺骨を受け取るとわたしは火葬場を後にした。葬儀も火葬も立ち会ったのはわたしだけだった。あなたに身寄りはなかった。タクシーに乗り、別に受け取った箱を開く。白いちいさな石のようなものが入っていた。遺骨を食べる人のために、取り分けてあるのだった。 指でつまみあげ、口に含む。奥歯で強く噛んだ。嫌な音がした。歯が欠けた音。吐き出した。手の上であなたの骨とわたしの欠けた歯が並んでいた。――お揃い。 胸の裡でつぶやくとわたしは笑った。声に出して笑ってみた。笑い声はいつのまにか嗚咽に変わり、止まらなかった。

センター試験

「センター試験のときはごめんね」 卒業アルバムの寄せ書きにそう書くと彼女はペンを置いた。「え、なに? なんかあったっけ?」まったく覚えがない。人違いではないだろうか。彼女になにかされた記憶はなかった。戸惑うわたしに彼女は「消しゴム」と答えた。 そう言われても困る。もっとヒントを…… でも彼女はほかのクラスメートに呼ばれて行ってしまった。結局、その続きは聞かないままだった。彼女とは特に親しいというわけではなかった。ただのクラスメート。だからいまとなっては彼女のことをほとんど思い出せない。 だけどセンター試験で連想するのはいつも彼女だ。彼女の書き込み。消しゴムを拾ってあげたとか、貸してあげたとかそんな他愛ないことだろうと思う。水たまりに映る雲のように、「ごめんね」の文字だけが卒業アルバムとわたしの胸に残っている。 相手が気にしていなくてもわたしが気にする。わたしが気にしなくても相手が気にしてる。そんな「ごめん」がいままでにも何度かあったし、これからもあるだろう。わたしの声は小さすぎて北風に吹き飛ばされる。届かなかった声。ごめん。白い息は、青空に消えた。  噴水の影で古びた夢を踏む 鏡のような冬の砂粒

コーヒー牛乳

 おばあちゃんのコーヒー牛乳は甘かった。いままで飲んだどのコーヒー牛乳よりも甘くて、冷えるとすぐ表面に膜ができた。お正月に里帰りするたび、おばあちゃんはいつもわたしにそれを出してくれた。虫歯になりそうなくらい甘くて、あたたかな、コーヒー牛乳。 おばあちゃんは農家だった。いくつかの山を持ち田んぼを管理していた。牛もいたけど、牛舎から漂う匂いは正直苦手だった。臭かった。わたしのお気に入りの場所は夏みかんの若木が見える軒端で、夏にはそこで日向ぼっこをしながら漫画を読んでいた。 おばあちゃんの家にも漫画はあったが古過ぎて読む気になれなかった(お兄ちゃんは「あぶさん」も「野球狂の詩」も熱心に読んでいた)。そんなわけで、わたしは手持ちのコミックを何度も読み返した。夏みかんの木を見ながら眠ってしまい、大人たちの話し声で目覚めることもあった。大人たちの声はいつも重苦しく響いた。どこかくぐもっていて、両親も祖父母も違う世界の人たちのように思えた。影絵のようだった。 おばあちゃんはいまはボケてしまった。ここにいるのに違う場所にいる。違う誰かを見ている。おばあちゃんの見ている影絵にちいさなわたしがいて、夏みかんの木のそばで本を読んでいる。砂糖たっぷりのコーヒー牛乳を飲んでいる。そんな気がした。おばあちゃんはいまでも田んぼを耕し、牛の世話をしているつもりなのかもしれない。 でも牛はもういない。牛舎はとっくに取り壊された。おばあちゃんの家は暗く冷たく、獣の匂いが微かにする。おばあちゃんはわたしに気づくと、わたしの母の名前を呼んだ。違うよという言葉を飲み込んでわたしは甘いコーヒー牛乳をおばあちゃんに手渡す。おばあちゃんがくしゃりと笑った。  思い出をなくして泣くのなぜ泣くか思い出せなくなるまで泣くの    

人波

 治ったと思っていた。エスカレーターの途中で隙間風に似た音が喉から漏れた。ひゅぅ。嫌な予感がする。落ち着いて確認したい。わたしの思いと裏腹に体は通勤ラッシュの人波に押し流された。改札の外へと漂着してようやく深く息を吸い、吐いた。隙間風が吹いた。 喘息だ。小学生の頃がいちばんひどく、中学生になるとだいぶ良くなった。最後に喘息になったのは社会人になりたての春だった。季節の変わり目に加えてストレスが重なったせいだろう。GWだったのが幸いだった。わたしは大型連休をひたすら寝て過ごした。 あれ以来だから、かなり久々の発作だった。押しかけてきた元彼に金をせびられているような気持になる。いま手持ちはないし、そもそもあなたにお金を出す義理はない。いい加減にしてほしい。吸入器も薬もバッグにはない。息を吸う。お願い、帰って。わたしに構わないで。 元彼は陰険な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。あなたはいつもそう。欲しがるだけ。わたしから奪うだけ奪って去っていく。目の前を人々が行き過ぎる。駅の構内は人で溢れ、駅員が大声でアナウンスを繰り返す。戻らないといけない。この人波に混じってわたしも会社に行かなきゃ。 でも体は動かなかった。隙間風はどんどんひどくなっていき、わたしは会社に連絡を入れると人々とは逆方向に歩き出した。歩きながら時間をさかのぼっているようだった。新社会人のわたし。中学生のわたし。小学生のわたし。わたしたちは誰から何を奪ったのだろう。奪われたのだろう。 酸素が足りないせいか頭が動かなかった。中学生のわたしは咳き込みながら前に進み、新社会人のわたしは財布の中の保険証を確認し、小学生のわたしは隣にいるはずの誰かの手を探していた。わたしの冷えた手を温めてくれる誰かの手。息ができない。人波の果てでわたしは溺れかけていた。  穢れなき横断歩道ぼくたちは星の見えない夜を選んだ

鉄塔

 鉄塔を見かけるとついスマホで写真を撮ってしまう。送電線。電信柱。仕事始めの火曜日、何度となくため息をつきながらわたしは駅へと向かった。雲ひとつない青空が道の先に広がり、左手には巨大な鉄塔がそびえていた。スマホを向ける。背後で子どもたちが笑いながら通り過ぎた。 写真を撮り始めたのはある男のせいだった。数年前、わたしはネットゲームにはまっていた。MMORPG。インターネット上で不特定多数の人々が集まり遊ぶゲームだ。お互いに顔は見えないし現実の素性もわからない。でもゲームで仲良くなったその男はわたしに会おうよと声をかけてきた。 男の誘いを無視しているとTwitterでもしつこくメッセージが届くようになった(男とわたしはTwitterでもやり取りをしていた)。やがて男の顔写真が届いた。「青ちゃんの写真も送ってよ」と男は書き添えていた。気持ち悪い。わたしは適当に近所で撮った鉄塔の写真を送った。 それから男はいろんな場所の鉄塔の写真を送ってくるようになった。東京、横浜、北海道、沖縄、カナダ、イタリア。男は世界中を旅したことがあるとさも自慢げに書いていた。本当かはわからない。ネットで拾った画像かもしれない。でも鉄塔とその向こうに広がる空にわたしは魅せられた。 その後も男から一方的に鉄塔の写真が送られ続けた。数か月経つと男はTwitterアカウントを削除しゲームもやめた。男とはそれきりだった。わたしは心底ほっとしてひとりで乾杯した。万歳。ベッドに寝ころび、スマホに保存した鉄塔の写真を指でなぞる。遮るもののない空から風は強く吹いた。 ゲームにはまりながらわたしが求めていたのは別のものだった。それがいったいなんなのか自分でもわかっていなかった。貪れば貪るほど乾いていく。飢えていく。風に吹かれて送電線は激しく揺れているはずだった。でもわたしのスマホに映るのは空のように静かな鉄塔と送電線だった。  寒がりな君の小指に触れていた鉄塔の前なんにもなくて

成人式

 成人式の朝、潰れた蛙がワイングラスの中からわたしを見ていた。つぶらな瞳だった。ぺしゃんこになっているのに瞳だけが真珠のように煌いていて、必死に何かを訴えていた。誰かがグラスにワインを注いだ。瞳は紫色に染まってなおわたしを見ていた。母の瞳だった。 「起きなさい」母はそう繰り返していた。体が揺さぶられる。眼が覚めると母がわたしを睨んでいた。ぺしゃんこにされて頭上からワインを注がれたのだ。怒って当然である。ごめんなさい。むにゃむにゃつぶやくわたしに母は「今日は成人式でしょ」と語気を荒くして言った。 成人式。そういえばそうだった――気がする。昨日の夜、バイト先の先輩たちに「前祝いだ」と飲みに誘われ、明け方まで飲んでいた。お酒に強くないのに雰囲気に流されて飲み潰れたのだった。気分が悪い。間違いなく二日酔いだ。「早く着物に着替えなさい」と母が急かすが、無理。無理です。「気持ち悪い。行きたくない」そう言うと母の表情が変わった。子供のころ、窓ガラスを割ったのがばれたときと同じ表情。般若。言わなきゃよかったと思ったけど遅かった。「20歳にもなって、あんたは!」完全に母が説教モードに入る。着物を選ぶときも一番張り切っていたのは母だった。もともとわたしはそんなに乗り気ではなかった。母のお説教は終わらなかった。そんなに大きな声を出さないでほしい。頭に響く。ガンガンする。眼を閉じてどうにかやり過ごそうと決めた。瞼の裏でぺしゃんこの蛙と目が合った。成人おめでとう。潰れた声にわたしは中指を立てた。  元気です さびしい熊は眼を閉じてシャケをとってる踊るみたいに

 子どものころ、お兄ちゃんと裏山へ行ったことがある。木々は我が物顔に茂り、濁った沼ではカエルたちが周囲を気にせず大きな声で鳴いていた。本当は来たくなかった。無理やりお兄ちゃんに連れてこられたのだった。それなのにお兄ちゃんはわたしを気にせずどんどん先へと進んだ。 わたしは必死にお兄ちゃんの背中を追いかけた。はぐれたくなかった。この山で迷子になって死んだ子どもの話を何度となく聞かされた。「お兄ちゃん待って」走るとプリキュアの水筒が腰のあたりにぶつかった。「おいてかないで」 ひらけた場所でやっとお兄ちゃんは立ち止まり、わたしを見た。「食ってみな」お兄ちゃんの手には小さな赤い果物があった。野イチゴ。いつも食べるイチゴと違って、なんだか怖い感じがした。食べて平気なのだろうか。でもお兄ちゃんはなんでもないように野イチゴを口にしている。 勇気を振り絞り野イチゴを食べた。口中に青臭さが広がり、苦みが舌を刺した。「うえええ……」半泣きのわたしを見てお兄ちゃんはお腹を抱えて笑っていた。ひどい。ひどすぎる。怒るわたしにかまわずお兄ちゃんは満足したのか「帰ろうぜ」と言った。 兄とはひとりで突っ走って勝手に満足する生き物なのだと、そのとき学んだ。漫画やアニメに出てくるかっこよくて優しい兄なんて幻想だ。フィクションだ。帰り道も兄はわたしのことなんか気にせず先へと進んだ。でも、その背中が見えなくなることはなかった。見失うことはなかった。  震えつつ風のなかです 矜持あり猫には猫の骨には骨の

ジッポ

 煙草を吸わない人だった。でも彼女の部屋にはいくつもの、様々なデザインのジッポライターが飾られていた。ディズニーのキャラクター、滅びた生物、アイドルグループの刻印。「全部限定品」。初めて彼女の部屋を訪れた夜、わたしの耳元で彼女は囁くように言った。「変なの」デザインはどれもお洒落でセンスが良かったけれど、緊張をごまかすためにわたしはわざと悪態をついた。「タバコ吸わないくせに」彼女は「だから集めてんの」とわたしに顔を近づけた。ココアの薫りがした。駅前の喫茶店で飲んだミルクココア。わたしもきっと同じ薫りだった。 彼女とは恋人同士ではなかった。知り合いで、なんとなく体を重ねて、肉体関係だけがしばらく続いた。彼女の結婚を機にそんな関係も終わりを告げた。終わりが近いと知ったのは冬の夜だった。彼女のセーターからは煙草の薫りがした。 彼女の顔はいまでは思い出せない。ただ、ジッポの表面に描かれたデザインははっきり思い出せる。恐竜、骸骨、大鷲、猫。一度も使われることなく、オイルが補充されることもなかったそれらの横に、わたしはわたしを加えてみる。銀色のジッポ。その表面にはたぶん壊れた指輪が刻まれていた。  忘れものばかり集めて暮らしたい マフラー、ライター、切符(あなたの)