藍瀬青

記事一覧(41)

ウルトラマリン

 あなたのいない場所で、あなたの好きな歌を聴いていた。相手のいない片耳イヤホン。垂れ下がったケーブルを指でいじる。11月になって急激に寒くなり、今日の最低気温は3度。東京は街も人もすっかり冬の装いだ。空を見ながら白い息を吐く。制服の上に着ているダッフルコートは4番目のボタンが取れかけている。――縫ったげよっか。 この屋上で初めて会ったとき、あなたはわたしにそういった。金網をのぼるときに引っ掛けたのだろう。カーディガンの袖口がほつれていた。 あなたはなにもいわず、わたしのカーディガンを縫ってくれた。わたしがなぜ死のうとしていたのか訊くことなく「できたよ」と笑った。 それ以来、放課後にあなたと屋上で会うようになった。わたしはいじめられていることを口にしなかったし、あなたも自分のことを話さなかった。わたしたちは好きな音楽について語り、新宿の夜の匂いについて語った。 あなたと話していると、ぐちゃぐちゃだった心が落ち着いた。本来の色を取り戻した。そう打ち明けるとあなたは「わたしもだよ」と微笑んだ。「空に色を塗ってるみたいに、落ち着く」 首を傾げたわたしに「時々そんな空想をするの」とあなたは照れたように「イヤなことがあったとき、想像のなかで空に色をゆっくり塗ると耐えられそうな気がしてくる」「どんな色?」「ウルトラマリン」 知らない色だった。あなたはスマートフォンでウルトラマリンを検索すると「この色」とわたしに見せてくれた。群青。色見本の下には「ラピスラズリを砕いてつくられる」と説明書きがあった。「わたしも塗ろうかな」「うん。一緒に塗ろうよ。砕こう」「砕くところからやるの!?」 驚いたわたしにあなたが笑い声をあげた。わたしも笑った。学校のなかで心から笑える場所はここだけだった。屋上。あなたの隣。 もうすこしでチャイムが鳴る。扉が開いて、あなたがいつもの笑みを浮かべて現れる。他愛ない話をしよう。ひとつのイヤホンを互いの耳に嵌めて同じ曲を聴こう。そして、わたしたちは今日もラピスラズリを砕くのだ。

イカロスの羽、燃えて、

 生徒会室で魔女はナイフを握りしめた。刃渡りは短く、片側は大きく波打っている。柄の色はオレンジ。テーブルに置かれたトンガリ帽子のリボンと同じ、さらにいえば彼女がナイフを突き立てようとしている「それ」とほぼ同じ色だった。「また振られたの?」 わたしが声をかけると魔女は顔を上げた。半泣きだった。訊くまでもなく、最初から――この部屋に彼女が入ってきたときから――わかっていた。わたしと彼女は中学時代からの友人で、こんな姿は何度も見てきた。魔女の仮装をした姿ではなく失恋した彼女の姿を。 何度も。「『そんなつもりじゃなかった』って……」彼女はナイフを握り直し、目の前のハロウィンかぼちゃに突き立てた。「じゃあ、どんなつもりでキスしたの!?」 罪なきかぼちゃの残骸が新聞紙に飛び散るのを見ながら「線からはみださないように切って」と注意する。「彼氏できたんだって! 彼氏とデート行くんだって!」マジックペンで記された瞳を大雑把に切り抜いて「しかも、前にふたりで『行きたいね』って話してたお店にだよ! どう思う!?」「別にいいんじゃない?」「よくないー!」 彼女は噛みつくようにわたしを睨み、「はあ」と大きなため息をついた。「ヒナリってほんとクールだよね。クールっていうか冷たいよね。この冷血漢!ハデス」「ハデスって……」懐かしい。「久々に呼ばれた。イカロスは相変わらず羽を燃やしてるね」「だからー! あたしはイカロスじゃないし!」 中学の頃、クラスでギリシャ神話が流行したことがあり(ソシャゲの影響だった)、お互いをギリシャ神話の登場人物になぞらえた。彼女に「ハデス」といわれたわたしはすこし考えて「イカロス」と返した。明らかに叶う見込みのない恋ばかりする彼女は、どこかイカロスを連想させた。無謀にも太陽に近づこうとして死んだ少年。「えー!?」彼女は不満そうに声を上げた。「イカロスって、あれでしょ? 羽が燃えて海に落ちちゃった人でしょ?」「ちょっと違う。羽は燃えてない。羽を固めたロウが熱で溶けて、翼がばらばらになっただけ」「燃えたよ。燃えたんだと思うよ」 なぜか自信たっぷりに彼女はそう断言し、わたしは「イカロスが言うならそうかもしれないね」と冥王的な微笑を浮かべた。 あのころと、いまと、なにも変わっていない。彼女は海に落ちては性懲りもなくまた太陽を目指し、わたしはクールにそれを眺めている。「――先生のところに行ってくる」 呼び出しを受けて彼女は生徒会室を出ていった。わたし以外に、部屋には誰もいない。静寂。彼女のつくったハロウィンかぼちゃを手に取る。あとはLEDライトを中に入れて飾るだけ。でもわたしは動かずにかぼちゃを見ていた。乱暴にくりぬかれた瞳と大きな口を見つめた。(クール、か……) どんな時でも冷静で、軽はずみな行動はしない。簡単に感情を表に出すこともない。クール。そんな人間にはこんな風に瞳は掘れない。勢いよく口をくりぬくことはできない。叶わないとわかっているのに想いをぶつけることなんて、できない。 眼を閉じる。抑え込まれた気持ち。告げられることのない想い。どこにも辿り着くことなく、舞い落ちる羽。わたしはからっぽだった。虚ろだった。でも。 ハロウィンかぼちゃにそっと額を押し当てる。――燃えてるんだよ。

アンドロイドと台風 あるいは最後のオクトーバーフェスト

 フォリナ・E・オクトーバーと出会ったのは台風が関東に上陸する前日、風が吹き荒れる土曜日の午後だった。悪天候にも関わらず池袋のビアガーデンは盛況でドイツ人の楽隊が陽気な音楽を奏でていた。友人に約束をすっぽかされた私は黒ビールを飲み、白ソーセージに舌鼓を打った。屋上の手摺には「オクトーバーフェスト」ののぼりがいくつも並べられ、風に煽られていた。その脇に彼女はいた。ビールを片手に、はためくのぼりのひとつを指で押さえていた。真剣な表情だった。まるで自分が指を離せば飛んで行ってしまうとでも思いこんでいるみたいだった。 なぜ彼女に声をかけたのかはいまでもわからない。酔っていたせいかもしれない。なにしてるんですかと私は訊ねた。「え、」驚いたように彼女は私を見た。黒い髪に空色の瞳。「いえ。何も」 顔立ちは外国人だが流暢な日本語だった。彼女が指を離すとのぼりは風を受けて激しく暴れ出した。私は腕を伸ばし、のぼりを指でつまんだ。指先を通じて風の動きが伝わってくる。「……気持ちいい」 つぶやいた私に、彼女が微笑みを浮かべた。彼女も再びのぼりを指でつまんだ。吹き狂う風を指先に感じながら私たちは屋上に佇んでいた。 交わした言葉は多くなかった。内容もたいしたことじゃない。「フォリナ・E・オクトーバー」彼女は名乗ったあとに「偽名です」とご丁寧に言い添えた。「実はわたし、アンドロイドなんです」と悪戯っぽい笑みを浮かべて付け加えた。「私もだよ」 スマートフォンの機種はアンドロイドだった。「奇遇ですね」「奇遇だね」 彼女は私よりも年下――20代の初めのように見えた。年の割に幼いというか、変わっているらしい。たいして気にならなかった。アルコールがいい具合に回っていたし、彼女の顔は好きだった。 自分が作られたのは10月だということ、1年に1回だけ外出を許されているということ、次のバージョンアップで自分のメモリチップは消去されることを彼女は明るく語った。「台風を感じてみたかったんです」 だから、良かったです。彼女は口の周りにビールの泡をつけたまま笑った。 酔いが覚めたのは翌日、日曜日のお昼過ぎで、台風はとっくに上陸していた。ペットボトルの水を飲み、ソファに座ってテレビを付ける。どこもかしこも台風情報ばかりだった。窓を揺らす風の音を聞きながらフォリナのことを思い出した。 馬鹿らしい。 チープな漫画かアニメじゃないんだから。まったく。私は苦笑する。変な子だ。10代ならともかく、20代であの調子だといろいろ大変だろう。 でも、彼女の笑顔が頭から離れなかった。白い指先と空色の瞳。その隣にいつのまにか私も立っていた。台風を感じるために屋上でのぼりをつまむ2体のアンドロイド。音楽もざわめきも彼女たちには聞こえない。それはすぐ消える記憶だった。消されるデータだった。 私は窓硝子に触れた。荒れ狂う風が窓を揺らした。

snow,tail,blanket

 ほんものなのよ、と彼女はいった。ほんものの馬の尻尾なの。さわってみない?  五月の三週目、木曜日の夜だった。雪はまだやむ様子もなくテレビではニュースキャスターがこの時期にしては珍しいことですと白く染まった熊本城を映していた。架台にも櫓にも、そして樹齢八〇〇年を越すという御神木にも雪は降り積もっていた。熊本から引っ越したのは地震の一か月前だった。二〇一六年の三月三十一日。そのわずか二週間後に熊本に大地震が起きた。そのニュースをわたしは東京で聞いた。引っ越す前に熊本城の天守閣に登り、景色をよく目に焼き付けておこうと誓った。いまとなっては忘れられるはずがなかった。東京に来て三年。満員電車にも仕事にも慣れ、恋人もできた。ふたりともエルレガーデンが好きで(エルレ復活を知ってわたしたちは興奮し馬鹿騒ぎした)、かわいいメイドさんが好きだった。そもそも出会いのきっかけがメイドだった。初めてのメイド喫茶でどうしたらいいのかわからず、入口付近をうろうろしてたわたしに彼女が声をかけてきたのだ。 高かったんだから。ポニーテールを自分でぴょこぴょこ動かしながら彼女はつづけた。馬よ。ほんものの馬。さわってみてよ。 いや。わたしは栗色の尻尾に合わせて首を振った。化粧を落とし、髪をほどき、靴下も脱いだ。もうめんどくさいことはなにひとつやりたくない。ソファに深く埋まっていたい。 エアコンから吹く温風はかび臭かった。フィルター掃除をしなきゃとソファに溺れながらぼんやり考える。でも、まさか五月に暖房をつけて毛布を引っ張り出すことになるなんて思ってもいなかった。想定外。しかたない。 ゴールデンウイーク明けに社員がひとり辞めたのも――すくなくともわたしにとっては――想定外だった。彼はいまインドネシアにいるらしい。インスタには女の子とビンタンで乾杯している写真が何枚もあった。楽しそうでなによりです。わたしはその余波で仕事が増えて残業続きです。ソファに座り、毛布にくるまり、彼女(の尻尾)に誘惑されています お疲れだね。彼女はわたしの隣に座り毛布に入り込んだ。 うん。わたしは彼女の肩にもたれかかり、眼を閉じた。疲れてる。何日も漂流してたみたいに疲れ切ってる。 先にお風呂入ったら? 彼女がわたしの髪を撫でながら訊ねた。すこし考えてから断る。いまはいい。あとで入る。 じゃあ、先に入っちゃうね。 彼女は立ち上がるとお風呂場にむかった。彼女は決断も行動も早い。こうしたいと思ったらすぐ行動に移す。わたしとは正反対だ。わたしは何かを決めるまで時間がかかるし、決めても行動に移すまでさらに時間がかかる。 初めて彼女の尻尾にさわったときも例外ではなかった。最初は動物の毛だとは知らなかった。メイド喫茶で出会い、連絡先を交換して付き合うようになったあと、このお団子はウィッグなんだよと彼女が教えてくれた(当時、彼女はお団子にしていた)。まったく気づかなかった。そういうと、ウィッグの色に合わせて髪を染めてるのだと彼女はいった。いまはアッシュグレー。前はショコラブラウン。 似合ってる。わたしの言葉にありがとうと彼女は嬉しそうにほほえみ、さわってみる?とお団子を指さした。ほんもののうさぎの毛だよ。 うさぎ? そう。動物の毛でつくられたウィッグをつけるのが好きなの。ぜんぶ抜け毛から集められたものだから、安心して。動物にかわいそうなことなんてしてない。 安心といわれても。わたしは迷い、判断を保留した。あとで。あとでさわらせて。 彼女はいいよと軽くいった。あとでね。 でも、結局、実際にさわったのは一週間ほど経ってからだった。潔癖症というわけではない。ただ、勇気が出なかっただけだ。そのあいだうさぎの毛について調べた。換毛期にはうさぎが死ぬ確率が高いこともネットで知った。毛の生え変わりはうさぎにとって生死のかかった一大イベントだという。他人事とは思えなかった。わたしも自分を変えたくて思い切って引っ越したのだった。 さわるよ。 その夜、彼女に向かってそういうと彼女はふきだした。大げさすぎない? まるで初めてセックスするみたい。 顔を真っ赤にしたわたしに、どうぞ、と彼女はお団子を向けてくれた。さわる。思ったよりやわらかかった。もっと硬い毛を想像していた。ほんとうに、うさぎの尻尾に触れているような感覚だった。気持ちよかった。でも、同時に、胸の奥でざわめくものがあった。それが寂しさだと気づいたのはずっとあとになってからだった。 寂しかった。うさぎの毛がほんものであればあるほど、そこにうさぎがいないのだと感じてしまった。ほかの動物でも同じだった。さわればさわるほど、気持ちよければいいほど、寂しさが募った。いつかわたしは彼女の尻尾にさわるのを億劫だと思うようになっていた ほんものの馬の尻尾なの。 その誘惑もわたしの心を動かすことはなかった。特に、いまは疲れている。疲れ切っている。彼女のポニーテールにさわるのは楽しいだろう。気持ちいいだろう。でも、その毛がほんものであればあるほど、わたしはそのあとに寂しくなってしまう。だから、いまはさわりたくなかった。 お風呂場からは彼女がシャワーを浴びる音が微かに聞こえていた。毛布にくるまりなおす。さっきまで彼女と一緒にくるまっていた毛布。ぎゅっと強くつかんだ。 寂しい。 窓の外で季節はずれの雪は降り続けていた。彼女の脱いだ服を想った。はずされたウィッグを、ほんものの馬の尻尾のことを、想った。夜の波がわたしを沖へとさらい、わたしは溺れないよう必死に毛布を握りしめた。でも無駄だった。水滴を踏んで彼女がわたしの元へ帰ってくるまで、わたしは雪の降る夜の海に沈んでいた。

誕生日のリマインダー

    眠りすぎたあとのように指はしびれていて、スマートフォンを押せなかった。消し忘れたリマインダー。ちいさな音だった。みじかく、鈴に似た音で鳴った。液晶画面に表示されたリマインダーの内容を目にしたとたん、指がしびれたように動かなくなってしまった。――莉奈と誕生日デート。 末尾にはスケジュールを入力したときのテンションそのままに絵文字が踊っている。たった2か月前なのに、遠い。ゲルマン民族の大移動くらい遠く感じる。日本史Bあるいは世界史A。第一問。莉奈の乱が起こった原因とその政治的・歴史的影響について述べなさい。《800字程度》 ちくたくちくたく。 くずれたパンケーキをぼんやりと口に運んで、わたしは空白の解答欄を見つめる。リマインダーを見つめる。些細ないさかい。足りなかった言葉。それらがいつのまにか積み上がり、心がすれ違ってしまった。お互いの関係に慣れすぎて「言わなくてもわかってくれる」なんて慢心して、気づいた時には遅かった。なにがあったというわけじゃない。でも終わっていた。莉奈の乱。それはわたしという愚か者への当然の反乱だった。 涙があふれそうになってぎゅっと眼を閉じる。ゆっくりと息を吸う。考えちゃいけない。思い出しちゃいけない。そう思えば思うほどストレートパーマをかけた莉奈の髪や唇の感触がよみがえる。映画館で一緒に食べたポップコーンの味や帰り道で食べたたい焼きの匂いを思い出す。仲直りの手紙を無造作に莉奈の鞄に突っ込んで走り去った日のこと。莉奈の手に落ちて溶けた雪を舐めた午後。忘れちゃうよねとふたりで笑った教室。好きな音楽について1時間くらい話したあと、こんなこともいつか忘れちゃうんだろうねと莉奈は微笑んだ。過ごした日々。交わした会話。ぜんぶ覚えていることはできない。だから、きっと、忘れちゃう。ここにあったものは、いつかなかったことになる。 わたしはなんて答えたのだろう。覚えていない。放課後の日差しが床を白く切り取っていたことは覚えているのに、肝心なことはなにひとつ思い出せない。莉奈の言う通りだ。感情も、気持ちも、たしかにそこにあったのにわたしたちは忘れてしまう。――わたしたち、どんな大人になるんだろうね。 あの放課後、莉奈の横顔は綺麗で、忘れたくないと強く思った。いっしょに大人になろう。いいかけて、でも、恥ずかしくていえなかった。いえなかった言葉ばかり覚えてる。 一緒にいたかった。誕生日おめでとうっていってほしかった。 莉奈が食べたがっていたふわふわのパンケーキをひとりで食べる。わたしは今日で17歳。莉奈よりも1歳、年上になった。嬉しくない。ぜんぜんめでたくなんか、ない。せっかくのパンケーキだってぜんぜん味がわからない。 忘れないで、なんていえない。 忘れない、なんて誓えない。 でも莉奈と過ごした日々は消えない。わたしが忘れてしまっても、莉奈が思い出さなくなっても、なかったことになんか、ならない。だから。――いっしょに大人になろう。 あの日いえなかった言葉を、わたしは、やっと口にした。声にならない声で。ここにいない彼女へ向けて。 

停電

     停電が多い街。日本を発つ前にチェックしたブログやTwitterにはどれも似たような注意書きが記されていた。生水は飲まないようにすること。停電に備えてモバイルバッテリーは持参すること。ブゥゥンという低い唸りのあとに電気が消え、私たちは「停電だ」「だね」と短く言葉を交わした。とっくに日は落ちていた。暗闇に包まれた部屋で私たちは慌てることなく元の姿勢に戻った。背中合わせに寝ころび、それぞれお互いのスマホをいじった。狭いベッドだった。初めての海外旅行で安いホテルを選んだせいだ。でもいちばんの原因は予約時に2人部屋ではなく1人部屋を取ってしまったことだった。ホテルのフロントに訴えてみたがほかに空きはなく、1人部屋にふたりで泊まる結果になった。予約したのは彼女だったが責める気力はなかった。ホテルに来るまでにバスを乗り間違え、厄介な男につきまとわれ、荷物の一部がなくなり、私も彼女も疲れ切っていた。 私と彼女は会社の同期だった。ある泥酔した夜、ふたりとも学生時代は自殺することばかり考えていたのだとわかった。死に損ないのふたりだった。死ぬ勇気も生きる勇気もないまま、ただなんとなく生き延びてしまった。私たちはアルコールの勢いもあって抱き合い、そして、翌日には昨夜のことを忘れたふりですごした。 あれから、お互いに学生時代のことには触れずにいる。気の合う同期。同僚。その距離を守っている。 停電で部屋は暗いのに、怖くはなかった。目の前のスマホの灯りのおかげかもしれない。でも私の後ろで、彼女の灯りも部屋を淡く照らしてくれていた。 こんなに満たされていいの? 甘夏のマーマレードで君を汚した

煙草

 夜の廊下は煙草の匂いがした。 当時、大学生だったわたしは木造住宅の二階に住んでいた。築40年にもなるそのアパートはあちらこちらにガタが来ていて、歩くたび廊下は軋みを立てたし壁越しに隣の部屋の生活音が聞こえた。それでも住み続けたのは家賃が格安だったからだ。お風呂も洗濯機もない四畳間だったけれど、銭湯もコインランドリーも近くにあって不便ではなかった。もうひとつ。大家のおばあちゃんの方針で入居者は女性だけだった。「男はやかましかけん」 入居者面接(そういうものがあったのだ)でおばあちゃんは首を振った。方言が強く、気も強かったけれど、焼き肉を奢ってくれたり野菜をわけてくれたり良い人だった。お世話になりっぱなしだった。 だから住んでいる女性はみんな礼儀正しく常識をわきまえた人たちばかりだった。深夜に誰かが騒いだり大きな音がしたりといったことはいちどもなかった。 隣に住む女性の元にはときどき恋人が訪れていた。なんどか見かけたことがある。恋人も女性で、髪を短く切りそろえていた。最初に見かけたときは革のジャケットにジーンズを着ていたこともあり、男だと勘違いしてしまった。室内では禁煙(おばあちゃん方針その2)だったので恋人さんはアパートの外で煙草をふかしていた。 眼が合うと恋人さんは目尻をさげて軽く会釈した。こちらも会釈し、狭い階段をあがって二階へとのぼった。音楽やってそうな人だなというのが第一印象だった。わたしは人の顔を覚えるのが苦手なはずなのに、その人の顔は頭から離れなかった。やがてふたりぶんの足音が階段から聞こえ、廊下が軋んだ。隣の部屋のドアが開いて閉じた。ひそやかな話し声が壁を通して漏れ聞こえてきた。内容はわからない。輪郭の滲んだ水滴のようだった。不快ではなかった。 恋人さんは外で一服してから彼女さんの部屋を訪ねるのが習慣になり、体に染みついた煙草の匂いは廊下にもすこしのあいだ漂った。ほかに煙草を吸う女性はいなかった。大学やバイトから帰り、廊下にいつもの匂いがすると、来てるんだとわかった。そんな夜はいつも以上に音に気を付けた。隣からはあいかわらず静かな話し声が雨音のようで、聞くともなく聞いているとわたしも雨のひとしずくに変わっていくような錯覚を覚えた。 隣の女性が自殺したのは夏の夜だった。 睡眠薬を飲んだらしい。わたしは友人の家に遊びに行っていて、ことの顛末を知ったのはあとになってからだった。「なんがあったとやろねえ……」 おばあちゃんはつらそうにため息をついた。第一発見者は恋人さんだった。すぐ救急車を呼んだが手遅れだった。遺書には「ごめんね」とだけ書かれていたという。 なにかを言いかけておばあちゃんは口をつぐんだ。麦茶を飲み何度目かのため息を漏らした。わたしも黙り込んだまま、ただ、グラスの表面を伝って落ちる滴を見つめていた。 煙草の匂いがした。 隣室の女性が亡くなって数日後の夜、バイトが終わってアパートの階段をのぼると暗い廊下に煙草の匂いが漂っていた。――来ている。 隣の部屋のドアは開いていた。話し声や物音は聞こえなかった。明かりもついていない。迷ったけれど隣の様子を窺ってみることに決めた。何かあってからでは遅い。息をひそめ、できるだけ足音を立てないようにして、開いたドアからそっと部屋を覗いた。 彼女がいた。見覚えのある短い髪。恋人さんは部屋の真ん中でこちらに背中を向け、うずくまっていた。わたしに気づいた様子はない。暗がりにうっすらとテーブルや本棚が浮かび上がって見えた。亡くなる前のままなのだろう。この部屋で女性と恋人さんは幾度もなんでもない言葉を交わし、ひそやかに睦言を重ねたのだろう。恋人さんは動かなかった。砂時計はとっくに割れてしまっていて、こぼれだした砂も闇に紛れているのに、落ちる砂の音を聞こうとしているようだった。耳を澄ませているようだった。

腹上死は人生の夢でした

 ワニを飼うような女の子になりたかった。平気な顔でうさぎを殺し、退屈な彫像を爆破するような女の子。「コインロッカー・ベイビーズ」のアネモネのような少女。 でも。「ワニはイヤだね」 隣でむにゃむにゃとつぶやく亜紀に、わたしは「そうだねー」 なんてのんきに答えた。ワニに食べられて死ぬのはイヤだねー。 わたしたちはベッドのなかで「自殺うさぎの本」を読んでいた。うさぎたちがいろんなやり方で自殺を試みるという内容の絵本だ。実にさまざまな死に方がある。ジェットエンジンに飛び込んだり、大きな貝に挟まれたり、蛇に食べられたり。 そんな奇妙な自殺の手段のひとつとして、ワニも出てきたのだった。開いたワニの口に突っ張り棒を差してうさぎさんは本を読んでいた。ワニが口を閉ざせば棒もうさぎさんもたやすく砕けて飲み込まれてしまうだろう。「なにを読んでるんだろうね?」「あれじゃない? 完全自殺マニュアル」「うはっ! なつかしいのきたー」 亜紀が眼を細める。彼女とはひとまわりほど年が違う。知ってるの?と訊ねると、一時期クラスで流行って回し読みされていたらしい。それがきっかけで有害図書ばかり読む「裏文芸部」がひそかに結成され、彼女も何度か参加したのだという。楽しかったよ、と亜紀は無邪気に笑った。秘密結社みたいでわくわくした。それに、「読むな」って言われると読みたくなる。完全自殺マニュアル以外にいろいろ読んだよ。大人たちが禁じたものってぶっちゃけそんなにたいしたことない。勝手に騒いで勝手に怖がってるだけ。かわいいよね。 話しながら亜紀はページをめくり、首輪に触れた。フェイクレザーの赤い首輪。アネモネに憧れた中学時代から十余年、わたしはワニではなく女の子を飼っている。 誕生日プレゼントに首輪を欲しがったのは亜紀だった。「これ買ってよ」 突き付けられたスマホの画面にはAmazonの商品紹介ページが映っていて、「SM 首輪」という文字が記されていた。二度見してやっと「え」と声が出た。 え? 亜紀と付き合って1年になるけど、SMプレイはしたことがなかった。そしてわたしは痛いのがダメな人間で、Sではない。どちらかというとMだと思っている。亜紀はリバだけれどわたしはネコだ。誕生日プレゼントで首輪を買わせてわたしに付けさせるのだろうか?「違うよ」 声に出ていたのか、わたしの疑問を亜紀は即座に否定した。「わたしが付ける」「なんで? こういうことしたいの?」 されたいの?「付けたいから」あっけらかんと亜紀は答えた。「飼われるのもいいかなと思って」 ますますわからない。「買って」 亜紀はわたしの指をスマホに導いた。「いいから、黙って飼いなよ」 悪いようにはしないからさ、と亜紀はうそぶき、わたしの耳を噛んだ。1-clickボタンの色が変わった。 首輪が届いたあともわたしたちの関係は変わらなかった。セックスのバリエーションが増えることもなかった。いつも通りの日々。いつも通りのふたり。違うのは夜になるたびわたしが亜紀の首に首輪を嵌めるようになったことだけだ。 亜紀に首輪を嵌めるとき、指先が金属の留め具に触れると体が疼いた。その正体が自分でもわからなかった。唇を噛み、うつむいたまま不器用に指を動かした。そんなわたしを亜紀はいつも面白そうに見つめていた。 「ワニに食べられるのもイヤだけど、」 自殺うさぎの本に眼を落したまま亜紀がいった。「体を引き裂かれるのもイヤだね」 わたしは黙って頷いた。 亜紀は本を脇に置くと「嫌な死に方トップ10」を並べ立てた。全身の皮を剥がされて放置が8位で、蛇と蠍だらけの谷底に落とされるのが5位で、ネズミたちに齧られるのが4位だった。順位の基準がよくわからない。「1位!」 どぅるるるるる、と口ドラムを鳴らして亜紀は「腹上死!」 自信満々に告げて発表を終えた。「え、1位それなの?」 腹上死。性交中に突然死すること。ずっと以前、亜紀と腹上死についてwikiで調べたことがある。女同士でもあり得るのか知りたかったのだ。結論としてはあり得るらしい。それどころか自慰中でも起こると知ってわたしたちは「マジかー」と顔を見合わせた。自慰に励んで死んじゃうのか。なかでも「なお性交は非常に体力を消耗する運動であるため」という記述が亜紀のお気に入りだった。実感こもってるよね。そう亜紀はしみじみとつぶやいた。わたしは「腹上死」の検索で出てきた「腹上死は人生の夢でした」がツボだった。血管の名前を覚えるための語呂覚えらしい。世の中にはいろんな発見がある。 それはそれとして。「もっとあるでしょ」「嫌じゃない? やってる最中に死んじゃうんだよ?」「わかるけど、もっとほかにあるよ。あったよ」「たとえば?」 自殺うさぎに出ていた「飛び降り自殺するサラリーマンにぶつかって死ぬ」とか「椅子の足に潰される」とか、わたしが思いつくままに口にしていると、「ペットに殺されるとか?」 亜紀が唇の端を曲げてわたしを見た。笑っているのに、眼には獰猛な光が浮かんでいた。獲物を前にした肉食動物の瞳。飼い慣らせない野獣の匂い。わたしは彼女を飼っているんじゃない。――飼わせてもらっている。 彼女の手がわたしの肩をつかんだ。押し倒される。首筋に汗がにじみ、シーツに染みが広がった。わたしのすぐ目の前で暗く赤い首輪が微かに揺れた。おなかの奥が疼いた。たぶん亜紀は最初から気づいていた。彼女に首輪を嵌めるたび、本当はわたしが彼女に首輪を嵌めて貰いたがっていることに。気づいていて知らないふりをしている。――ずるい。 亜紀にさわられるたび思考がまとまらなくなる。散り散りになっていく。彼女の手を強く握った。――殺して。 声にならない声で叫んだ。――もっと、なんどでも、わたしを殺して。あなたにならいい。あなたになら殺されてもかまわない。 涙で視界が滲み、世界は白に染まった。綺麗なことも汚いことも、正しいことも正しくないことも、すべてが同じ色に染め上げられる。でもその奥底に沈んだ色をわたしは知っていた。秘めた情熱の色。赤。誰に見えなくても、わたしにはそれが見える。首輪のかたちをしたその色にわたしは手をのばした。

センター試験

「センター試験のときはごめんね」 卒業アルバムの寄せ書きにそう書くと彼女はペンを置いた。「え、なに? なんかあったっけ?」まったく覚えがない。人違いではないだろうか。彼女になにかされた記憶はなかった。戸惑うわたしに彼女は「消しゴム」と答えた。 そう言われても困る。もっとヒントを…… でも彼女はほかのクラスメートに呼ばれて行ってしまった。結局、その続きは聞かないままだった。彼女とは特に親しいというわけではなかった。ただのクラスメート。だからいまとなっては彼女のことをほとんど思い出せない。 だけどセンター試験で連想するのはいつも彼女だ。彼女の書き込み。消しゴムを拾ってあげたとか、貸してあげたとかそんな他愛ないことだろうと思う。水たまりに映る雲のように、「ごめんね」の文字だけが卒業アルバムとわたしの胸に残っている。 相手が気にしていなくてもわたしが気にする。わたしが気にしなくても相手が気にしてる。そんな「ごめん」がいままでにも何度かあったし、これからもあるだろう。わたしの声は小さすぎて北風に吹き飛ばされる。届かなかった声。ごめん。白い息は、青空に消えた。  噴水の影で古びた夢を踏む 鏡のような冬の砂粒

コーヒー牛乳

 おばあちゃんのコーヒー牛乳は甘かった。いままで飲んだどのコーヒー牛乳よりも甘くて、冷えるとすぐ表面に膜ができた。お正月に里帰りするたび、おばあちゃんはいつもわたしにそれを出してくれた。虫歯になりそうなくらい甘くて、あたたかな、コーヒー牛乳。 おばあちゃんは農家だった。いくつかの山を持ち田んぼを管理していた。牛もいたけど、牛舎から漂う匂いは正直苦手だった。臭かった。わたしのお気に入りの場所は夏みかんの若木が見える軒端で、夏にはそこで日向ぼっこをしながら漫画を読んでいた。 おばあちゃんの家にも漫画はあったが古過ぎて読む気になれなかった(お兄ちゃんは「あぶさん」も「野球狂の詩」も熱心に読んでいた)。そんなわけで、わたしは手持ちのコミックを何度も読み返した。夏みかんの木を見ながら眠ってしまい、大人たちの話し声で目覚めることもあった。大人たちの声はいつも重苦しく響いた。どこかくぐもっていて、両親も祖父母も違う世界の人たちのように思えた。影絵のようだった。 おばあちゃんはいまはボケてしまった。ここにいるのに違う場所にいる。違う誰かを見ている。おばあちゃんの見ている影絵にちいさなわたしがいて、夏みかんの木のそばで本を読んでいる。砂糖たっぷりのコーヒー牛乳を飲んでいる。そんな気がした。おばあちゃんはいまでも田んぼを耕し、牛の世話をしているつもりなのかもしれない。 でも牛はもういない。牛舎はとっくに取り壊された。おばあちゃんの家は暗く冷たく、獣の匂いが微かにする。おばあちゃんはわたしに気づくと、わたしの母の名前を呼んだ。違うよという言葉を飲み込んでわたしは甘いコーヒー牛乳をおばあちゃんに手渡す。おばあちゃんがくしゃりと笑った。  思い出をなくして泣くのなぜ泣くか思い出せなくなるまで泣くの