腹上死は人生の夢でした

 ワニを飼うような女の子になりたかった。平気な顔でうさぎを殺し、退屈な彫像を爆破するような女の子。「コインロッカー・ベイビーズ」のアネモネのような少女。
 でも。
「ワニはイヤだね」
 隣でむにゃむにゃとつぶやく亜紀に、わたしは
「そうだねー」
 なんてのんきに答えた。ワニに食べられて死ぬのはイヤだねー。
 わたしたちはベッドのなかで「自殺うさぎの本」を読んでいた。うさぎたちがいろんなやり方で自殺を試みるという内容の絵本だ。実にさまざまな死に方がある。ジェットエンジンに飛び込んだり、大きな貝に挟まれたり、蛇に食べられたり。
 そんな奇妙な自殺の手段のひとつとして、ワニも出てきたのだった。開いたワニの口に突っ張り棒を差してうさぎさんは本を読んでいた。ワニが口を閉ざせば棒もうさぎさんもたやすく砕けて飲み込まれてしまうだろう。
「なにを読んでるんだろうね?」
「あれじゃない? 完全自殺マニュアル」
「うはっ! なつかしいのきたー」
 亜紀が眼を細める。彼女とはひとまわりほど年が違う。知ってるの?と訊ねると、一時期クラスで流行って回し読みされていたらしい。それがきっかけで有害図書ばかり読む「裏文芸部」がひそかに結成され、彼女も何度か参加したのだという。楽しかったよ、と亜紀は無邪気に笑った。秘密結社みたいでわくわくした。それに、「読むな」って言われると読みたくなる。完全自殺マニュアル以外にいろいろ読んだよ。大人たちが禁じたものってぶっちゃけそんなにたいしたことない。勝手に騒いで勝手に怖がってるだけ。かわいいよね。
 話しながら亜紀はページをめくり、首輪に触れた。フェイクレザーの赤い首輪。アネモネに憧れた中学時代から十余年、わたしはワニではなく女の子を飼っている。


 誕生日プレゼントに首輪を欲しがったのは亜紀だった。
「これ買ってよ」
 突き付けられたスマホの画面にはAmazonの商品紹介ページが映っていて、「SM 首輪」という文字が記されていた。二度見してやっと「え」と声が出た。
 え?
 亜紀と付き合って1年になるけど、SMプレイはしたことがなかった。そしてわたしは痛いのがダメな人間で、Sではない。どちらかというとMだと思っている。亜紀はリバだけれどわたしはネコだ。誕生日プレゼントで首輪を買わせてわたしに付けさせるのだろうか?
「違うよ」
 声に出ていたのか、わたしの疑問を亜紀は即座に否定した。
「わたしが付ける」
「なんで? こういうことしたいの?」
 されたいの?
「付けたいから」あっけらかんと亜紀は答えた。「飼われるのもいいかなと思って」
 ますますわからない。
「買って」
 亜紀はわたしの指をスマホに導いた。
「いいから、黙って飼いなよ」
 悪いようにはしないからさ、と亜紀はうそぶき、わたしの耳を噛んだ。1-clickボタンの色が変わった。


 首輪が届いたあともわたしたちの関係は変わらなかった。セックスのバリエーションが増えることもなかった。いつも通りの日々。いつも通りのふたり。違うのは夜になるたびわたしが亜紀の首に首輪を嵌めるようになったことだけだ。
 亜紀に首輪を嵌めるとき、指先が金属の留め具に触れると体が疼いた。その正体が自分でもわからなかった。唇を噛み、うつむいたまま不器用に指を動かした。そんなわたしを亜紀はいつも面白そうに見つめていた。 


「ワニに食べられるのもイヤだけど、」
 自殺うさぎの本に眼を落したまま亜紀がいった。
「体を引き裂かれるのもイヤだね」
 わたしは黙って頷いた。
 亜紀は本を脇に置くと「嫌な死に方トップ10」を並べ立てた。全身の皮を剥がされて放置が8位で、蛇と蠍だらけの谷底に落とされるのが5位で、ネズミたちに齧られるのが4位だった。順位の基準がよくわからない。
「1位!」
 どぅるるるるる、と口ドラムを鳴らして亜紀は
「腹上死!」
 自信満々に告げて発表を終えた。
「え、1位それなの?」
 腹上死。性交中に突然死すること。ずっと以前、亜紀と腹上死についてwikiで調べたことがある。女同士でもあり得るのか知りたかったのだ。結論としてはあり得るらしい。それどころか自慰中でも起こると知ってわたしたちは「マジかー」と顔を見合わせた。自慰に励んで死んじゃうのか。なかでも「なお性交は非常に体力を消耗する運動であるため」という記述が亜紀のお気に入りだった。実感こもってるよね。そう亜紀はしみじみとつぶやいた。わたしは「腹上死」の検索で出てきた「腹上死は人生の夢でした」がツボだった。血管の名前を覚えるための語呂覚えらしい。世の中にはいろんな発見がある。
 それはそれとして。
「もっとあるでしょ」
「嫌じゃない? やってる最中に死んじゃうんだよ?」
「わかるけど、もっとほかにあるよ。あったよ」
「たとえば?」
 自殺うさぎに出ていた「飛び降り自殺するサラリーマンにぶつかって死ぬ」とか「椅子の足に潰される」とか、わたしが思いつくままに口にしていると、
「ペットに殺されるとか?」
 亜紀が唇の端を曲げてわたしを見た。笑っているのに、眼には獰猛な光が浮かんでいた。獲物を前にした肉食動物の瞳。飼い慣らせない野獣の匂い。わたしは彼女を飼っているんじゃない。
――飼わせてもらっている。
 彼女の手がわたしの肩をつかんだ。押し倒される。首筋に汗がにじみ、シーツに染みが広がった。わたしのすぐ目の前で暗く赤い首輪が微かに揺れた。おなかの奥が疼いた。たぶん亜紀は最初から気づいていた。彼女に首輪を嵌めるたび、本当はわたしが彼女に首輪を嵌めて貰いたがっていることに。気づいていて知らないふりをしている。
――ずるい。
 亜紀にさわられるたび思考がまとまらなくなる。散り散りになっていく。彼女の手を強く握った。
――殺して。
 声にならない声で叫んだ。
――もっと、なんどでも、わたしを殺して。あなたにならいい。あなたになら殺されてもかまわない。
 涙で視界が滲み、世界は白に染まった。綺麗なことも汚いことも、正しいことも正しくないことも、すべてが同じ色に染め上げられる。でもその奥底に沈んだ色をわたしは知っていた。秘めた情熱の色。赤。誰に見えなくても、わたしにはそれが見える。首輪のかたちをしたその色にわたしは手をのばした。

すれ違いの猫たち

短歌・詩・散文など