弱いことは、罪ですか。
病院のベッドで明け方を待っていた。点滴が落ちる。逆さまに取り付けられた透明なパックは決まったときに決まった量だけの液体を送り込んでくる。送られる側の事情なんかお構いなしだ。何があろうと冷静沈着で慌てることがない。時間と同じだった。針を肘のあたりに刺され、問答無用に無色の時間を流し込まれている。
仕切りを隔てていびきが聞こえた。佐野さんだ――40代で、3人の子供がいる。いちばん上の子供は私と同い年だった。中学2年生。何度か見かけたことがある。佐野さんと同じ眼のかたちをした、優しそうな男の子。でも毎日お見舞いに来るのは子供たちではなく若い女性だった。茶色の髪を後ろで束ねた美しい人で、グレーのチェスターコートを着て来ることが多かった。「わたしのパートナー」と佐野さんは嬉しそうに彼女のことを語った。分厚い眼鏡をかけていつも眠そうな佐野さんが、彼女の話をするときはきらきらと眼を輝かせ楽しそうにしていた。恋してると一目でわかった。遠い異国の話を聞くように耳を傾けながら、自分のパートナーのことを考えた。佐野さんには話せない内容だった。それに、私のは恋でもなんでもない。
胸の痛みは少しずつ治まり、やっと、消えた。大きく息を吐く。幼いころから病気がちだった。夜中に突然高熱を出して病院に運び込まれたり、遊んでいる最中に意識を失ったりして、気づいたときには病院のベッドにいてベージュの天井を見上げていた。両親は共働きで生活に余裕はなかった。「気にしなくていいの」と母親は言ってくれるけれど、私の入院代と薬代に費やされた金額を考えると申し訳なさで頭が上がらない。医者によると私の免疫力は一般の人々よりも低いらしかった。一時的なものではなく場合によるとずっとこのままかもしれない。その事実は私を打ちのめした。強くなりたかった。弱いままでいたくなかった。
カーテンに仕切られた病室から、窓は見えない。まだ朝は遠かった。「彼女」はどこにいるんだろう。何をしているんだろう。私にはわからない。右の掌を顔にかざしてみる。人差し指の付け根から斜めに切り傷が走っている。闇の中でもその傷は白く鮮やかに浮かび上がるのに、私以外の誰にも見えないらしかった。ナイフが私の肌に深く食い込んでも血は流れなかった。痛みはなかった。顔を顰めていたのは「彼女」だった。床に滴る血は「彼女」のものだった。
☽
焼け野が原で三日月を仰いだ。焦げた草の匂いが漂う夜に、言えなかった言葉を何度もひとり呟いていた。
そんな記憶がある。
もちろん、本物の記憶の筈がない。「彼女」はカユキから出たことがなく、人口200万ほどのこの都市に焼け野が原は存在しない。見渡す限りのすべてが燃え尽きていた広大な平野はどこにもない。
だからこれは夢なのだろうと「彼女」は判断する。「彼女」は夢を見ないから、他の誰かの夢。「彼女」を生み出した病室の女の子の夢かもしれないし、「彼女」がナイフを突き立てた他の女の子の夢かもしれない。わからないこと、知らないことは多い。なにしろ「彼女」は生まれて1ケ月も経っていない。
満ち足りた表情で眠る女の子に毛布を掛けてやり、「彼女」は微笑む。1日の中でいちばん好きなのはこの時間だった。さっきまで泣き腫らしていた女の子が落ち着きを取り戻し、穏やかな寝息を立て始める。そのあどけない寝顔を見るのが「彼女」は何より好きだった。安心できた。自分がやっていることは――自分の存在は間違いではないと確信できた。
左手首のあたりから淡い緑色の光がゆっくりと2回点滅した。回収完了。「彼女」が手首に巻いたリストバンドがそれ以外の信号を発したことはない。簡単な作業だった。柄のないナイフを握り、悩みを持つ女の子の二の腕から肘にかけて刃を滑らせる。皮膚の表面を薄く削る。痛みもなく傷も残らない。実際に削っているのは皮膚ではなかった。むにゅむにゅだった。本当の名前は知らない。ナイフが女の子たちの肌を撫でると刃から液体が滲み、球体になる。ビー玉程度の大きさで、触れると柔らかく凹み、指を離すと元に戻った。ゴムのようだった。「彼女」はそれを「むにゅむにゅ」と呼んでいた。いつだったか、回収対象の女の子に頬を指でつつかれ「むにゅむにゅしてる~」とからかわれ、抱き付かれた。その記憶が胸の底に熾火のように残っている。回収が終われば女の子たちの記憶から「彼女」の存在は消されてしまう。だから覚えているのは「彼女」だけだ。「むにゅむにゅ」に触れていると心がじんわりと温まるように感じる。失いたくないと――利用されたくないと思う。
でも、その願いは叶わない。
立ち上がる。窓際まで歩いたところで振り向いた。女の子に目覚める様子はない。自分が何を言おうとしたのかわからないまま、開きかけた唇を固くぎゅっと結ぶ。焼け跡に昇る三日月が脳裏を過ぎる。
「むにゅむにゅ」を集めるのが「彼女」の仕事だった。すくなくとも、男はそう「彼女」に説明した。太陽系マーケティング日本支社担当だとか言っていたが、覚えていない。「彼女」にわかるのは、自分が影だということだった。「彼女」の元になった存在はいまも病院のベッドにいる。男は入院中の女の子のコピーとして「彼女」を創り、ナイフを「彼女」に握らせた。
「肉体のコピーはちょろいんやけど、心の方は難しかとです」変な日本語とアクセントだった。「そやけん、このナイフを使いますー」
男と「彼女」の前で、女の子は戸惑った表情を浮かべていた。それはそうだろう。夜に突然男が現れて契約を迫り、自分そっくりの存在が生まれたのだ。男が女の子にどんな説明をして契約を結んだのか「彼女」は知らない。「パートナー」だとか「心の繋がり」だとか言っていたようだった。
男に指示に従い「彼女」は女の子の掌に刃を走らせた。でも顔を歪ませたのは女の子ではなく「彼女」だった。溢れる血を押さえていると男は「上出来たい」と満足そうに笑った。「痛かでしょ? そいが大事なん。そいがこん仕事でいっちゃん大事なこと」
痛みに呻く「彼女」に女の子は「大丈夫?」と声をかけた。頷く。心配しないで。そう返事をしようとして、できなかった。女の子の傷、そして痛みを自分が引き受けている。そのことをどう受け止めればいいのかわからなかった。入院している自分に会ったのはそのときだけ。自分が生れたときだけだった。また会いたいとは思わない。その必要もない。お互いにお互いの感情を知ることはできないけれど、繋がっている。右の掌に残った白い傷跡。それで十分だった。
「あなたのお仕事は、聞くこと」病院から出ると男は「彼女」に説明した。「あなたは何も話さんでよか。聞くだけ。そいがあなたの仕事。相手はあなたを一時的にお友達の誰かと思っとるけん、不法侵入して警察呼ばれることもなか。グッドね。すばらしー。んでんで、タイミングを見計らって、こんナイフで相手の皮膚の一部を削り取ると、あら不思議! なんかぽわーって出るけん。そいば回収して。あ、こんナイフで切っても血は出らんし相手ば傷つけたり痛い思いさせることもなかけん大丈夫よ。平和」
グッドね、すばらしーと手を叩く男に「彼女」は「説明がぽわーっとしてるんですけど」と抗議した。無視された。ため息をつく。
「回収してどうするの?」
「むふふふふ。そこ聞いちゃいます?聞いちゃいますかー。あのね、クライアントがいま求めてるのは地球人の、特に思春期の女性の感情。そいつを元に企画立案すんの。退屈な会議、ブラック的なザンギョー、犠牲にされる家族との時間、お互いの足を引っ張りまくるコンペ、そんな有象無象を経ていろんな商品が作られて売られるわけよ。んで地球人の女の子たちに売るわけ。たくさん売るためにはまず情報ば集めんといけんし、セグメンテーションに応じた戦略も立てんばいけん。頑張れ宇宙のビジネスマンー」
男が何を言っているのか「彼女」にはほとんど理解できなかった。要するに「彼女」は女の子の話を聞けばいいということだろう。
「あ、言うの忘れとったけどコピーされた肉体って賞味期限3ヶ月なんよねー。賞味期限?寿命?じゅげむ? 冬が終わるぐらいやね。春が来たらあなたは消える。消えます。ぽんっ! やけん、それまで頑張って働いてね。きりきりぐるぐる社畜になってねー。労働ってすばらしー」
男は「ぐっどぐっど」と笑いながら立ち去った。3ヶ月。「彼女」にとってはなんでもないことだった。それはいい。でも、仕事に慣れるにつれ、理解が進むにつれ、「彼女」の回収したものが商品に変わることに対して違和感を覚えるようになった。「彼女」に打ち明けられるひそやかな呟きを利用されたくなかった。消費されたくなかった。感情は本人だけのものだ。でも、「彼女」に選択肢はなかった。本人の預かり知れぬどこかで日常生活がデータ化され、数値となって、資料として会議室で配られる。現実は宇宙の片隅で色分けされた箱のひとつに収納される。顧客分類。セグメンテーション。
剥き出しの刃を握りしめる。痛みはいつも「彼女」の側にあった。
その日の仕事もいつもと同じだった。「彼女」は夜空を背にして部屋に立った。ぬいぐるみだらけの部屋だった。テディベアはもちろん、様々な動物のぬいぐるみが所狭しと並べられている。十二支が勢ぞろいしているんじゃないかと「彼女」はさりげなく確認した。猿がいなかった。女の子と「彼女」を猿にカウントするなら十二支オールスターがここにいた。
女の子は友達と喧嘩したらしく、何度もスマホに文章を打ち込んでは消すのを繰り返していた。軽いウェーブのかかった黒髪が肩に垂れている。ため息と一緒に前髪が揺れた。机に置かれた教科書を見ると、女の子は中学2年生のようだった。「彼女」はリストバンドに触れた。オレンジの光が点滅し、女の子が顔を上げた。「彼女」を見る。表情は変わらない。ただ、瞳から色が失われていた。「彼女」は待った。待つことには慣れていた。それは仕事の一部でもあった。沈黙を享受すること。共有すること。慣れ親しんだ沈黙のなかで、女の子はうりぼうのぬいぐるみを抱き寄せ、「あたしが悪いの」と小さな声で打ち明けた。友人に彼氏ができたこと、その彼氏は女の子の幼馴染だったこと、ふたりとも大事な存在なのに自分だけ置いてけぼりにされる気がして、嫌な気持ちになること。そのせいで彼らに対して冷たく当たってしまったり心にもないことを言ってしまう。
「最悪だよね」
女の子は俯き、唇を噛んだ。「彼女」は何も言わなかった。ただそばにいた。女の子の手を握り、眠るまで一緒にいた。部屋の電気が消えて白い光が女の子の肩を掠めた。やがて音もなく窓が開き、閉じた。風は微かに薄氷の薫りがした。
☽
桜の花が風に煽られ、春の陽射しに身を投げ出した。日中の病院は騒がしい。美術館や図書館の方がずっと静かだ。でも美術館に入院患者がずらりと寝ている光景は異様だった。死体安置所のようだった。
昼食が片づけられ、診察も終わって私は時間を持て余していた。かと言ってどこに行く気にもなれずイヤホンで音楽を聴いた。叫べない私の代わりに叫んでくれる誰かがいる。
佐野さんがいたベッドにはいま別の女性が横たわっていた。佐野さんは2週間前に退院した。
「わたしのパートナーが『退院の前祝いに』って、これをくれたの」
そう言って嬉しそうに佐野さんはネックレスを見せてくれた。氷をかたどった青い石のネックレスだった。
「素敵ですね」
口に出した瞬間、どこかで見た覚えがある――そんな気がした。見てはいないけれど「知っている」。
「ありがとう。ちょっとわたしには若過ぎると思ったんだけど」
「そんなことないです。似合ってますよ」
佐野さんは照れくさそうに「ありがとう」と微笑んだ。「女性の中の少女」をテーマに作品を創っているブランドらしい。胸の奥が疼いた。欲しいとは思わなかった。ただ、懐かしいと感じた。
窓の向こうに広がる青空はどこまでも無垢で、傷ひとつなくて、私は眼を伏せてしまう。右の掌に白く残る傷跡を見る。いつどこで出来た傷なのか覚えていない。でも、時々、夢を見る。焼け野原に私によく似た少女が立っている。彼女は柄のないナイフを握りしめ、ひとり痛みに耐えている。夜風が吹いた。ナイフが地面に落ちる。彼女の姿はもうどこにもない。日にさらされ、雨に打たれて、刃は錆びる。なまくらの刃物を拾う者はいない。焼け野原で錆びた刃は忘れられるだろう。
退院できる日はまだわからない。私は弱く、無力で、ひとりだった。そんなときに掌を見つめる。すこし手を内側に寄せると白く尖った傷跡が歪んで、三日月を思わせた。それを見ていると、まるで誰かに手を握ってもらうように安心できた。
固く手を握りしめる。私の内側に三日月がある。それは私だけの月だった。他の誰も知らないことだった。風が吹き、桜が舞う。私はイヤホンを外した。
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