センター試験「センター試験のときはごめんね」 卒業アルバムの寄せ書きにそう書くと彼女はペンを置いた。「え、なに? なんかあったっけ?」まったく覚えがない。人違いではないだろうか。彼女になにかされた記憶はなかった。戸惑うわたしに彼女は「消しゴム」と答えた。 そう言われても困る。もっとヒントを…… でも彼女はほかのクラスメートに呼ばれて行ってしまった。結局、その続きは聞かないままだった。彼女とは特に親しいというわけではなかった。ただのクラスメート。だからいまとなっては彼女のことをほとんど思い出せない。 だけどセンター試験で連想するのはいつも彼女だ。彼女の書き込み。消しゴムを拾ってあげたとか、貸してあげたとかそんな他愛ないことだろうと思う。水たまりに...14Jan2018散文短歌
コーヒー牛乳 おばあちゃんのコーヒー牛乳は甘かった。いままで飲んだどのコーヒー牛乳よりも甘くて、冷えるとすぐ表面に膜ができた。お正月に里帰りするたび、おばあちゃんはいつもわたしにそれを出してくれた。虫歯になりそうなくらい甘くて、あたたかな、コーヒー牛乳。 おばあちゃんは農家だった。いくつかの山を持ち田んぼを管理していた。牛もいたけど、牛舎から漂う匂いは正直苦手だった。臭かった。わたしのお気に入りの場所は夏みかんの若木が見える軒端で、夏にはそこで日向ぼっこをしながら漫画を読んでいた。 おばあちゃんの家にも漫画はあったが古過ぎて読む気になれなかった(お兄ちゃんは「あぶさん」も「野球狂の詩」も熱心に読んでいた)。そんなわけで、わたしは手持ちのコミック...11Jan2018散文短歌
人波 治ったと思っていた。エスカレーターの途中で隙間風に似た音が喉から漏れた。ひゅぅ。嫌な予感がする。落ち着いて確認したい。わたしの思いと裏腹に体は通勤ラッシュの人波に押し流された。改札の外へと漂着してようやく深く息を吸い、吐いた。隙間風が吹いた。 喘息だ。小学生の頃がいちばんひどく、中学生になるとだいぶ良くなった。最後に喘息になったのは社会人になりたての春だった。季節の変わり目に加えてストレスが重なったせいだろう。GWだったのが幸いだった。わたしは大型連休をひたすら寝て過ごした。 あれ以来だから、かなり久々の発作だった。押しかけてきた元彼に金をせびられているような気持になる。いま手持ちはないし、そもそもあなたにお金を出す義理はない。い...10Jan2018散文短歌
鉄塔 鉄塔を見かけるとついスマホで写真を撮ってしまう。送電線。電信柱。仕事始めの火曜日、何度となくため息をつきながらわたしは駅へと向かった。雲ひとつない青空が道の先に広がり、左手には巨大な鉄塔がそびえていた。スマホを向ける。背後で子どもたちが笑いながら通り過ぎた。 写真を撮り始めたのはある男のせいだった。数年前、わたしはネットゲームにはまっていた。MMORPG。インターネット上で不特定多数の人々が集まり遊ぶゲームだ。お互いに顔は見えないし現実の素性もわからない。でもゲームで仲良くなったその男はわたしに会おうよと声をかけてきた。 男の誘いを無視しているとTwitterでもしつこくメッセージが届くようになった(男とわたしはTwitterでも...09Jan2018散文短歌
成人式 成人式の朝、潰れた蛙がワイングラスの中からわたしを見ていた。つぶらな瞳だった。ぺしゃんこになっているのに瞳だけが真珠のように煌いていて、必死に何かを訴えていた。誰かがグラスにワインを注いだ。瞳は紫色に染まってなおわたしを見ていた。母の瞳だった。 「起きなさい」母はそう繰り返していた。体が揺さぶられる。眼が覚めると母がわたしを睨んでいた。ぺしゃんこにされて頭上からワインを注がれたのだ。怒って当然である。ごめんなさい。むにゃむにゃつぶやくわたしに母は「今日は成人式でしょ」と語気を荒くして言った。 成人式。そういえばそうだった――気がする。昨日の夜、バイト先の先輩たちに「前祝いだ」と飲みに誘われ、明け方まで飲んでいた。お酒に強くないのに...08Jan2018散文短歌
兄 子どものころ、お兄ちゃんと裏山へ行ったことがある。木々は我が物顔に茂り、濁った沼ではカエルたちが周囲を気にせず大きな声で鳴いていた。本当は来たくなかった。無理やりお兄ちゃんに連れてこられたのだった。それなのにお兄ちゃんはわたしを気にせずどんどん先へと進んだ。 わたしは必死にお兄ちゃんの背中を追いかけた。はぐれたくなかった。この山で迷子になって死んだ子どもの話を何度となく聞かされた。「お兄ちゃん待って」走るとプリキュアの水筒が腰のあたりにぶつかった。「おいてかないで」 ひらけた場所でやっとお兄ちゃんは立ち止まり、わたしを見た。「食ってみな」お兄ちゃんの手には小さな赤い果物があった。野イチゴ。いつも食べるイチゴと違って、なんだか怖い感...07Jan2018散文短歌
花 幸せな記憶は嫌いだ。胸の底にほのかな灯りがともり、暗い壁に幻影が生まれる。幻影は笑みを浮かべている。皮肉な笑み。嘲笑。灯りは消えて胸のいちばん深く暗い場所にその笑みだけが残る。だから幸せな記憶を思い出すことはしない。眼を伏せて感情を殺す。生きるためだけに生きる。 そんな生き方に慣れちゃダメだよとあの人はわたしに諭してくれた。寂しさに慣れちゃいけない。でもそんな声をかけてくれたあの人をわたしは遠ざけた。わたしという暗渠に落ちてしまわないように――なんて、嘘だ。わたしは怖かった。寂しさに、孤独に、慣れ過ぎてしまった。 思い出すのはあの人の記憶。くるくると回りながら落ちる木の花のように、光を浴びながら幸せな思い出がわたしの中に落ちていく...06Jan2018散文短歌
ジッポ 煙草を吸わない人だった。でも彼女の部屋にはいくつもの、様々なデザインのジッポライターが飾られていた。ディズニーのキャラクター、滅びた生物、アイドルグループの刻印。「全部限定品」。初めて彼女の部屋を訪れた夜、わたしの耳元で彼女は囁くように言った。「変なの」デザインはどれもお洒落でセンスが良かったけれど、緊張をごまかすためにわたしはわざと悪態をついた。「タバコ吸わないくせに」彼女は「だから集めてんの」とわたしに顔を近づけた。ココアの薫りがした。駅前の喫茶店で飲んだミルクココア。わたしもきっと同じ薫りだった。 彼女とは恋人同士ではなかった。知り合いで、なんとなく体を重ねて、肉体関係だけがしばらく続いた。彼女の結婚を機にそんな関係も終わり...05Jan2018散文短歌
東京 ブラインドが開いているのは数か所だけで、全体は暗く影に覆われていた。僅かな隙間から漏れ落ちる冬の朝の光を見ていた。コーヒーを飲む。コンビニから会社まで1分もかからないのにコーヒーはもう冷めかけていた。あたしと同じだ。熱しやすく冷めやすい。 仕事も娯楽も長続きしたことはなかった。あっという間に飽きてしまう。恋愛も同じだった。相手に非はない。悪いのはいつもあたしだ。ブラインド越しに街を見下ろす。東京。変われるって信じてた。でもあたしは変われなかった。暖房はまだ効かなくて、濾過された光に温度はなかった。 さよならの数なんてもうわからない胸がざわめくときどきすごく04Jan2018散文短歌
鳥 あたし以外に乗客は誰もいない。平日の午後、がら空きの列車に乗って鳥籠を捨てに行く。鳥を中に入れたことのない籠だった。いつか鳥を飼おうと思って先に籠だけ買っていたのだが、結局、無駄になってしまった。あたしは結婚し引っ越しする。お腹には子供がいた。しばらく鳥を飼うことはないだろう。鳥籠を撫でる。お腹にいる子供を撫でているような気がした。思わず手を離す。電車が揺れた。駅に着いたらしい。ドアが開くと同時に鳥籠が座席から落ち、外へと転がった。中腰を浮かせてあたしは、でも、動かなかった。ドアが閉まる。 降りた客も乗ってきた客もいなかった。列車のなかにはあたしひとりだけだった。あたしはお腹をゆっくりとやさしく撫でた。名前をつけてあげる。あなたの...03Jan2018散文短歌
むにゅむにゅセグメンテーション 弱いことは、罪ですか。 病院のベッドで明け方を待っていた。点滴が落ちる。逆さまに取り付けられた透明なパックは決まったときに決まった量だけの液体を送り込んでくる。送られる側の事情なんかお構いなしだ。何があろうと冷静沈着で慌てることがない。時間と同じだった。針を肘のあたりに刺され、問答無用に無色の時間を流し込まれている。 仕切りを隔てていびきが聞こえた。佐野さんだ――40代で、3人の子供がいる。いちばん上の子供は私と同い年だった。中学2年生。何度か見かけたことがある。佐野さんと同じ眼のかたちをした、優しそうな男の子。でも毎日お見舞いに来るのは子供たちではなく若い女性だった。茶色の髪を後ろで束ねた美しい人で、グレーのチェスターコートを着...14Feb2017散文
炎 眼の奥に燃えさしの木片があるようだった。瞼を覆った手は熱く、皮膚を通して木片の燃えるちりちりという音が伝わってヒロモギは涙を流した。哀しいわけではない。木々も紙も火を付ければ煙が出る。この涙は煙だとヒロモギはひとりで結論づけ、深く息を吐いた。灰になるまで待つしかない。 ヒロモギが衛士の任に就いたのは1ケ月ほど前だった。門前の梅の枝にはまだ蕾はなく、雪まじりの風がヒロモギの黒髪を冷たく乱した。やんごとなきお方のため、お屋敷の前で番人を務める。それがヒロモギに与えられた職務で、それ以上のことは何も教えられなかった。お屋敷の中はどうなっているのか。どんな人間が暮らしているのか。なにひとつ知らない。衛士たちは屋敷から離れた小屋で寝泊まりし...18Jan2017散文