イカロスの羽、燃えて、

 生徒会室で魔女はナイフを握りしめた。刃渡りは短く、片側は大きく波打っている。柄の色はオレンジ。テーブルに置かれたトンガリ帽子のリボンと同じ、さらにいえば彼女がナイフを突き立てようとしている「それ」とほぼ同じ色だった。
「また振られたの?」
 わたしが声をかけると魔女は顔を上げた。半泣きだった。訊くまでもなく、最初から――この部屋に彼女が入ってきたときから――わかっていた。わたしと彼女は中学時代からの友人で、こんな姿は何度も見てきた。魔女の仮装をした姿ではなく失恋した彼女の姿を。
 何度も。
「『そんなつもりじゃなかった』って……」彼女はナイフを握り直し、目の前のハロウィンかぼちゃに突き立てた。「じゃあ、どんなつもりでキスしたの!?」
 罪なきかぼちゃの残骸が新聞紙に飛び散るのを見ながら「線からはみださないように切って」と注意する。
「彼氏できたんだって! 彼氏とデート行くんだって!」マジックペンで記された瞳を大雑把に切り抜いて「しかも、前にふたりで『行きたいね』って話してたお店にだよ! どう思う!?」
「別にいいんじゃない?」
「よくないー!」
 彼女は噛みつくようにわたしを睨み、「はあ」と大きなため息をついた。
「ヒナリってほんとクールだよね。クールっていうか冷たいよね。この冷血漢!ハデス」
「ハデスって……」懐かしい。「久々に呼ばれた。イカロスは相変わらず羽を燃やしてるね」
「だからー! あたしはイカロスじゃないし!」
 中学の頃、クラスでギリシャ神話が流行したことがあり(ソシャゲの影響だった)、お互いをギリシャ神話の登場人物になぞらえた。彼女に「ハデス」といわれたわたしはすこし考えて「イカロス」と返した。明らかに叶う見込みのない恋ばかりする彼女は、どこかイカロスを連想させた。無謀にも太陽に近づこうとして死んだ少年。
「えー!?」彼女は不満そうに声を上げた。「イカロスって、あれでしょ? 羽が燃えて海に落ちちゃった人でしょ?」
「ちょっと違う。羽は燃えてない。羽を固めたロウが熱で溶けて、翼がばらばらになっただけ」
「燃えたよ。燃えたんだと思うよ」
 なぜか自信たっぷりに彼女はそう断言し、わたしは「イカロスが言うならそうかもしれないね」と冥王的な微笑を浮かべた。
 あのころと、いまと、なにも変わっていない。彼女は海に落ちては性懲りもなくまた太陽を目指し、わたしはクールにそれを眺めている。
「――先生のところに行ってくる」
 呼び出しを受けて彼女は生徒会室を出ていった。わたし以外に、部屋には誰もいない。静寂。彼女のつくったハロウィンかぼちゃを手に取る。あとはLEDライトを中に入れて飾るだけ。でもわたしは動かずにかぼちゃを見ていた。乱暴にくりぬかれた瞳と大きな口を見つめた。
(クール、か……)
 どんな時でも冷静で、軽はずみな行動はしない。簡単に感情を表に出すこともない。クール。そんな人間にはこんな風に瞳は掘れない。勢いよく口をくりぬくことはできない。叶わないとわかっているのに想いをぶつけることなんて、できない。
 眼を閉じる。抑え込まれた気持ち。告げられることのない想い。どこにも辿り着くことなく、舞い落ちる羽。わたしはからっぽだった。虚ろだった。でも。
 ハロウィンかぼちゃにそっと額を押し当てる。
――燃えてるんだよ。