あなたのいない場所で、あなたの好きな歌を聴いていた。相手のいない片耳イヤホン。垂れ下がったケーブルを指でいじる。11月になって急激に寒くなり、今日の最低気温は3度。東京は街も人もすっかり冬の装いだ。空を見ながら白い息を吐く。制服の上に着ているダッフルコートは4番目のボタンが取れかけている。
――縫ったげよっか。
この屋上で初めて会ったとき、あなたはわたしにそういった。金網をのぼるときに引っ掛けたのだろう。カーディガンの袖口がほつれていた。
あなたはなにもいわず、わたしのカーディガンを縫ってくれた。わたしがなぜ死のうとしていたのか訊くことなく「できたよ」と笑った。
それ以来、放課後にあなたと屋上で会うようになった。わたしはいじめられていることを口にしなかったし、あなたも自分のことを話さなかった。わたしたちは好きな音楽について語り、新宿の夜の匂いについて語った。
あなたと話していると、ぐちゃぐちゃだった心が落ち着いた。本来の色を取り戻した。そう打ち明けるとあなたは「わたしもだよ」と微笑んだ。「空に色を塗ってるみたいに、落ち着く」
首を傾げたわたしに「時々そんな空想をするの」とあなたは照れたように「イヤなことがあったとき、想像のなかで空に色をゆっくり塗ると耐えられそうな気がしてくる」
「どんな色?」
「ウルトラマリン」
知らない色だった。あなたはスマートフォンでウルトラマリンを検索すると「この色」とわたしに見せてくれた。群青。色見本の下には「ラピスラズリを砕いてつくられる」と説明書きがあった。
「わたしも塗ろうかな」
「うん。一緒に塗ろうよ。砕こう」
「砕くところからやるの!?」
驚いたわたしにあなたが笑い声をあげた。わたしも笑った。学校のなかで心から笑える場所はここだけだった。屋上。あなたの隣。
もうすこしでチャイムが鳴る。扉が開いて、あなたがいつもの笑みを浮かべて現れる。他愛ない話をしよう。ひとつのイヤホンを互いの耳に嵌めて同じ曲を聴こう。そして、わたしたちは今日もラピスラズリを砕くのだ。
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