雨の化石

 恋人が湯船に沈んでもう1時間になる。日9ドラマが終わり、CMが流れる時間になっても浴室は静まり返ったままだ。今日こそ溺れたのかもしれない。42インチの液晶テレビでは吸血鬼がウィスキーを飲んで幸せそうに笑っている。銀紙を剥がしてチョコレートを口に放る。少しくどい甘さがいまは心地いい。リビングデッドに必要なのは人間の肉ではなくクランチチョコなのだ。それは断然そうなのだ。

 濡れた足音が近づいてくる。暗がりで聞いたら思わず息を潜めてしまいそうな音。ホラー映画で主人公に忍び寄る何者かの気配。

「ねえ、また体を拭かないで出てきたでしょ」

 振り返って恋人を睨む。恋人は濡れそぼった髪と痩せこけた体を晒して「ん」と曖昧に答える。髪先と指先から滴が落ちる。

「ちゃんとタオル使ってよ。床が腐っちゃうじゃない」

「体はもう腐ってるけど」

「死ね」

 リビングデッドジョークなんてダジャレと同じぐらいつまらない。タオルを投げつける。恋人は「もう死んでるじゃん」とぶつくさ言いながら体を拭くと屈みこんだ。しつけの成果だ。床を拭かないと私がブチ切れるとよくわかっているらしい。それなら最初からしなければいいのに。

「ほんとに風呂好きだよねー。しかも長風呂だし。女の子みたい」

「そうかな。湯船につかって考えごとしてるだけだよ」

「何を?」

「人間に戻る方法とか」

「馬鹿じゃないの。人間に戻ってどうすんのよ」

「……セックスしたい」

 沈黙。テレビでは子供たちが現代に蘇った恐竜たちを見て騒いでいた。

「腐っても男か」

 ついリビングデッドジョークみたいなことを言ってしまう。恋人は「いや、まあ、ははは」と照れ臭そうに笑う。「ははは」じゃねーし。

「可哀想」

「しみじみと言うなよ…… お前はどうなの?」

「どうって」

「いや、だから……」

「心配しなくても、もともとそういうの無くても平気」

 恋人はガウンをまとい私の隣に座った。猫型のソファが軽く軋む。

「じゃあ、人間だったときに知り合ってたら上手くいかなかったのかな」

「そうかもね」私と恋人が知り合い、一緒に暮らすようになったのは死んでから――リビングデッドになってからだった。「セックスが介在しないから恋人になれたのかも」

「介在」恋人は首を振り「お前は時々ムズカシイ言葉を使うよな」

「どこが難しいのよ」

「日常生活で『介在』なんて使わないだろ、普通」

「そんなことない」

「あるって」

 私は黙り、恋人も黙った。ふたりでチョコレートを食べながらテレビに見入る。むかし人気のあった映画のリメイク。滅びた恐竜が現代に蘇り、人間たちに牙を剥く。人間たちの作った映画。隔離されていても彼らの文化は私たちの元へ流れてくる。彼らはまだ生きてそこにいる。清潔な肉体。失われていない器官。生まれ変わる細胞。生殖。

「先に寝るよ」恋人は立ちあがると猫型ソファの尻尾を撫でた。「おやすみ」

「おやすみ」

 テレビから眼を離さずに私は言った。ティラノサウルスに踏み潰される三葉虫の化石。いつか私たちが化石になったとして、未来の人たちはそれがリビングデッドだとわかるだろうか。人間のものだと思われるのだろうか。乾いてしまえば私たちと人間に違いはない。風化し、時の流れを経て、ようやく私たちは人間に戻れるのかもしれない。

 窓ガラスが微かに震える。風。雨が混じっているようだった。私は自分の唇に触れ、胸を撫で、お腹から子宮のあたりへと手を滑らせた。

すれ違いの猫たち

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