冷たい海辺

 冷蔵庫に入っていたのは卵とレタス、プレミアムモルツと豚の挽き肉、そしてイタリア語の辞書だった。“Italian Dictonary”――Italian/English、English/Italian――緑色の表紙に白い文字でそう印刷されている。Dictionaryのrとyのあたりには茶色の染みが3つほど付いていた。誰かがこの上に酒のつまみでも置いたのかもしれない。あるいはピッツァに乗せたチーズやタコスが落ちてしまったのかもしれない。辞書もビールもキンキンに冷えていた。夏なら喜びの舞いでも舞うところだが、あいにくいまは冬で、しかも私はひどく苛立っていた。

 私を苛立たせる要因はいくつかに分類できる。身体的不調(ろくでもない頭痛や生理)、大学での出来事(落葉のように掃いても掃いても溜まる課題とレポート)、人間関係(あやとりをしているつもりが気づけば垂らされた蜘蛛の糸にぶらさがっているようなサークル内での会話)。

 なかでも最も私を苛立たせるのは瑞奈《みずな》氷理《こおり》で、おかげでこの頃は自棄酒まで飲み始めてしまった。

 氷理は私の彼女だ。高校時代に彼女から告白されて、何度か別れたものの、なんだかんだで5年間付き合っている。大学に入ってから同棲を始めたのも当然の流れだった。仕送りはあるものの生活費はぎりぎりだったし、どうせ親元を離れるのだから二人で一緒に住めばいろいろ便利だよねとすぐに話はまとまった。

 氷理は適当な性格で、私は几帳面な方だった。彼女がゴミを分別しなかったり服を脱ぎ散らかしたりするとどうしても小言を言ってしまう。彼女は「気をつける」と反省してみせるのだが、次の日にはもう忘れていた。それでも私は氷理が好きだった。彼女と話していると私の悩みなんて些細なことに思えたし、一緒にいるとほとんど気を遣わずに済んだ。他の人間といるときにリラックスできるということがどんなに幸せなことか、私はそれまで知らなかった。

「麻里奈《まりな》は気を遣いすぎ」

 氷理から何度そう言われたかわからない。でも、自分ではどうしようもなかった。そんな私を氷理は「そこが麻里奈の良いとこでもあるんだけどね」と微笑んで励ましてくれた。

 なのに。

 プレミアムモルツをグラスに注ぐ。白い泡がグラスの半分ほどを占拠し、私は少し手を止めて泡が消えるのを待った。相変わらず私は上手くビールを注げない。そのせいだろう。氷理はいつも自分でビールを注いだ。

 泡に口をつけグラスを煽る。冷たく苦いものが喉をちくちく刺しながら体の奥へと流れる。お正月休みで帰省して、1週間ぶりに戻ってきたら氷理はいなかった。乱れたシーツと私の知らない誰かの下着と、冷蔵庫の中にイタリア語辞書があるだけだった。知ってる。わかってた。氷理が適当な性格で、他の女とよろしくやってるって薄々感づいてはいた。でも、こんなのってない。今日帰るって私はメールしてた。返事はなかったけど事前に日にちを知らせてはいた。

「――馬鹿にしないでよ」

 悔しさと怒りで涙が溢れる。手の甲で目尻を拭った。指先についた泡からビールの薫りが鼻の奥をついて、私は人差し指の付け根を噛んだ。強く噛んだ。滲み出る赤い血がアルコールになって私をもっと深く酔わせてくれればいい。そう願った。

 浮気されるのは初めてじゃない。高校時代から氷理は他の学校の女の子たちと遊びに行って、その中のひとりと――あるいは何人かと――何度か「朝帰り」した。知りたくなくても共通の友人や知人からそういった話が伝わってきて、そのたびに私は激怒した。最初は信じられなかった。詰め寄った私に氷理は「ごめん」と頭を下げた。

「もう絶対にしないから」

 嘘だった。私に隠れて氷理は他の女の子を抱いていた。一度や二度じゃなかった。何度も何度も何度も。

 別れた原因は結局それだった。彼女の浮気だった。でも私は氷理がいなくなった穴を埋められなかった。あんな嘘つきで浮気性で他人の気持ちに鈍感な馬鹿なんて、とっとと見切りをつけた方がいい。友人たちは口を揃えてそう忠告してくれたし私もまったくその通りだと思った。

 それなのに、私は氷理のかわりを見つけられなかった。気づけばまた氷理と付き合い、別れ、また付き合う。それを繰り返してきた。

――海の藻屑になってしまう。

 氷理のかたちをした傷のいちばん奥にその言葉があった。裂けた皮膚に刺さって抜けずにいる言葉。彼女と完全に別れられないのはそのせいかもしれない。

「よく夢を見るの」

 初めて氷理と寝た翌朝、彼女は私の髪を指で梳きながら呟いた。

「どんな夢?」

 ぼんやりと訊ねる。まだ朝の早い時間だった。彼女の部屋のベッドは広く、ふたりとも横たわったまま薄闇で身を寄せ合っていた。

「嵐の夢。私は小さな船で、港に繋がれている。黒い雲がものすごい速さで空を流れてて風も強い。波は荒れていて高く飛沫をあげている。いつの間にか船と港を繋ぐ綱がほどけて、私は沖へと流されていく。自由になったと思って少し浮かれるんだけど、嵐はどんどん激しさを増して、波も岩のように固く私にぶつかって、やがて私は不安になる。このまま進めば私は転覆して海の藻屑になってしまう。でも、もう遅い。そんな夢」

「大丈夫だよ」私は彼女の手を握りしめた。「私が港に繋ぎとめてあげる」

「――うん」氷理は私の肩に額を当てた。「それなら安心」

 カーテンの隙間から生まれたての白い光が床に細く伸びていた。また寝息を立て始めた彼女の髪を撫でてベッドから降りる。朝日を踏んだ。それは氷のように冷たくて、私は足の甲に出来た一条の光を彫ったばかりの刺青のように見つめていた。真新しい綱のようだと思った。

 グラスは空になっていた。私はお酒が弱い。350mlも飲めば耳が赤くなってしまう。ある意味、コストパフォーマンスが良いのかもしれない。哀しみも怒りもグラス一杯分のアルコールで霞がかかる。見たくないものを見なくてすむ。感じたくないことを感じずにすむ。恋せよ乙女じゃなくて、酒飲め乙女。……なんだかおじさんみたい。いやだ。

 イタリア語の辞書を開く。Beerはbirra。ふたりで大学の受講科目を選択するとき、第二外国語はイタリア語を選んだ。なんとなく明るいイメージがあったからで、特に深い理由なんてなかった。いつか一緒にイタリア行こうねなんて言い合って、とりあえず“Una birra, per favore.”という言葉だけは忘れないようにってビールを飲むたび馬鹿みたいに繰り返した。ウナ・ビッラ・ベル・ファボーレ。ビール1杯ください。ウナ・ビッラ・ベル・ファボーレ。小さく呟きながらページをめくる。海。Seaはイタリア語でmareだった。形容詞はmarina。女性名詞で、海岸を意味する。

 まりな。

「すごい。麻里奈の名前が辞書に載ってる」

 氷理はそう言って水色の蛍光ペンでアンダーラインを引いた。Marina。指で水色のラインをなぞる。彼女は忘れてしまったのかもしれない。あの朝、私に話してくれた夢。この単語にマーカーを引いたこと。

 でも、私は忘れない。

 忘れられない。

 キッチンテーブルに俯せて私は息をつく。眠たかった。酔うといつも眠くなってしまう。嵐のような欲望にすぐ港を離れる小さな船。私はその船が帰るのをいつも待っていた。港と船を綱で繋いだ。その日々が無駄だとは思いたくなかった。徒労だと信じたくはなかった。

――眠る私の頬に誰かの指が触れた気がした。冷たい指。

「ごめんね」

 誰かが耳元でそっと囁く。

「……許さない」

 私は彼女の指を強く掴んだ。俯せたまま、ただ、その指を離さずにいた。

すれ違いの猫たち

短歌・詩・散文を掲載しています。