錵(にえ)

「古い血は全部、出し切りなさい。躊躇っちゃだめ。一気に掻き切るのよ」

 そう言うと女は私の髪を撫でた。冷たい指だった。火照った私の耳に女の指が触れるたび、痛みに似た刺激が走った。まるで体のいちばんやわらかな場所を鋭利な刃物で刺されたようだった。だがそれは不快ではなかった。痛みのあとに見えない傷口から何かが広がり、溶けていく。天井の黒い染みを見つめたまま、私は女に撫でられ、傷つけられ続けた。

 私たちは死ぬつもりだったのかもしれない。生きるつもりはなかった。未明の街を、闇の濃い道ばかりを選んで歩いた。夜から夜へと、あてどなく歩き続け、その一足ごとに世界からはぐれていく。

 夜の海を目指していた筈だった。夢を見るように、夢に溺れるように、夢を演じるように。

 だから――これは夢だった。

 胸の底に寂しさとも哀しみともつかない、冷えた暗い水がある。氷のような指が私の頬に赤い線を引く。鬱血した影を引きずっているせいで貴方は壊死しかけている。女が囁く。貴方が生きるためには影を裂き、古い血を出し尽くさないといけない。

 硝子の器が床に転がり、周囲には砂が散らばっていた。器に砂はほとんど残っていなかった。私と女で集めた砂だった。でもそれがいつのことだったのか、本当に女と一緒に集めたのか、どうしても思い出せなかった。

 女は私の胸に頭を乗せると「せっかく持って帰ったのにね」と感情のない声で私の心臓に言った。現実を生きるにはあまりに頼りなく擦り切れた心臓。几帳面な字で誰かが「社会不適合者」とラベルに記入し黴臭い研究室でホルマリン漬けになるだろう心臓。

 慰めの言葉をかけようとして、やめた。そんなもの女は求めていない。私も求めていない。私は黙ったまま自分の鼓動に耳を澄ませた。女も聞いている筈の音だった。

 女は顔を上げた。私以上に私を知っている存在。ある夢で、女は私の妹だった。別の夢で、女は私の妻だった。私たちはいくつもの夢を共に過ごした。いくつもの夜で互いに互いを貪った。女は唇にかかった髪の毛を指で静かによけると私の眼をまっすぐに見つめた。

 貴方の鞘ではなく、錵として、ここにいる。静かな声だった。刀を納めるのではなく、その表に浮かぶ模様のように。共に切り、共に血を浴び、共に錆びる。私はそのように貴方を愛し、生きて、そして、死ぬ。

「――眼を逸らさないで」

 女の手が私の指に重なる。暗い沖に月を宿して、限りなく海がいま、溢れる。私はその音を聞いた。夜と血とを呑み込み岸壁に波は砕ける。一閃の黎明を私は待っていた。