人波

 治ったと思っていた。エスカレーターの途中で隙間風に似た音が喉から漏れた。ひゅぅ。嫌な予感がする。落ち着いて確認したい。わたしの思いと裏腹に体は通勤ラッシュの人波に押し流された。改札の外へと漂着してようやく深く息を吸い、吐いた。隙間風が吹いた。
 喘息だ。小学生の頃がいちばんひどく、中学生になるとだいぶ良くなった。最後に喘息になったのは社会人になりたての春だった。季節の変わり目に加えてストレスが重なったせいだろう。GWだったのが幸いだった。わたしは大型連休をひたすら寝て過ごした。
 あれ以来だから、かなり久々の発作だった。押しかけてきた元彼に金をせびられているような気持になる。いま手持ちはないし、そもそもあなたにお金を出す義理はない。いい加減にしてほしい。吸入器も薬もバッグにはない。息を吸う。お願い、帰って。わたしに構わないで。
 元彼は陰険な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。あなたはいつもそう。欲しがるだけ。わたしから奪うだけ奪って去っていく。目の前を人々が行き過ぎる。駅の構内は人で溢れ、駅員が大声でアナウンスを繰り返す。戻らないといけない。この人波に混じってわたしも会社に行かなきゃ。
 でも体は動かなかった。隙間風はどんどんひどくなっていき、わたしは会社に連絡を入れると人々とは逆方向に歩き出した。歩きながら時間をさかのぼっているようだった。新社会人のわたし。中学生のわたし。小学生のわたし。わたしたちは誰から何を奪ったのだろう。奪われたのだろう。
 酸素が足りないせいか頭が動かなかった。中学生のわたしは咳き込みながら前に進み、新社会人のわたしは財布の中の保険証を確認し、小学生のわたしは隣にいるはずの誰かの手を探していた。わたしの冷えた手を温めてくれる誰かの手。息ができない。人波の果てでわたしは溺れかけていた。


  穢れなき横断歩道ぼくたちは星の見えない夜を選んだ

すれ違いの猫たち

短歌・詩・散文など