眼の奥に燃えさしの木片があるようだった。瞼を覆った手は熱く、皮膚を通して木片の燃えるちりちりという音が伝わってヒロモギは涙を流した。哀しいわけではない。木々も紙も火を付ければ煙が出る。この涙は煙だとヒロモギはひとりで結論づけ、深く息を吐いた。灰になるまで待つしかない。
ヒロモギが衛士の任に就いたのは1ケ月ほど前だった。門前の梅の枝にはまだ蕾はなく、雪まじりの風がヒロモギの黒髪を冷たく乱した。やんごとなきお方のため、お屋敷の前で番人を務める。それがヒロモギに与えられた職務で、それ以上のことは何も教えられなかった。お屋敷の中はどうなっているのか。どんな人間が暮らしているのか。なにひとつ知らない。衛士たちは屋敷から離れた小屋で寝泊まりし、交代で門に立った。彼らと屋敷の人間が言葉を交わすことはなかった。
春になれば故郷に帰れる――ヒロモギにとってはそれだけで十分だった。
十分なはずだった。
屋敷からも小屋からも離れた小高い丘でヒロモギは乱暴に頬をぬぐった。抜けるような青空が眩しく鬱陶しい。夜通し番をつとめたので出来れば小屋で眠っていたかった。でもひとりになれる場所はここくらいしかない。
夜は良かった。かがり火を見るのは好きだった。揺らめく炎を何時間でも見ていられた。そんな彼を他の衛士たちは「炎に憑かれてる」とからかった。そうかもしれなかった。朝が来て陽の光が世界を隈なく照らし出すとヒロモギは抜け殻だった。集中力を欠き、物思いに耽ることが多かった。見かねた監督役がヒロモギを夜番専任にしたほどだった。
丘からは小屋と屋敷が見渡せた。屋敷には離れがあり、倉庫があった。敷地はヒロモギの故郷の村よりも遥かに広い。このような屋敷を持つ人間がどんな生活を送っているのかヒロモギには想像もできなかった。鳥の声を理解しようとするのとおなじだった。それでもあの日屋敷から出てきた少女のことを思うたび、眼の奥で木片が燃えた。
あの日――夜も更け切ったころ、門が内側から開いた。衛士は二人一組で門前に立つ。でもヒロモギの同僚は塀に凭れかかりいびきをかいていた。賭けに負けてやけ酒をしたらしい。門が開ききっても同僚は目覚めなかった。
門から顔を覗かせたのは銀髪の少女だった。少女はあたりを見回し、ヒロモギと眼が合った。
「あなたのお仲間、寝てるよ。いいの?」
砕けた態度で少女が訊ねた。
「よくないです」
ヒロモギが答えると少女はおかしそうに笑った。
「よくないのに放っておくなんて、あなた、悪い人だね」少女は戸惑うヒロモギに構わず「あたし、悪い人って好きだよ」そう微笑んだ。
言葉に詰まったヒロモギに少女は「だからね」と続けた。
「あたしのことも放っておいてね」
門を閉めて少女は夜へと一歩踏み出した。駆け出そうとして振り返る。
「さよなら、悪い人」
少女が走り出す。かがり火の向こうへ、夜のずっと先へ、小さな背中が見えなくなる。同僚が「うーん」と間抜けな声を出して「寝てた」と言わずもがなのことをいった。
「なあ、なんかあったか?」
「なにも」
「――だよなあ。頼む、俺はもう少し寝るわ」
同僚がまた船を漕ぎ、ヒロモギは少女の声を思い出した。悪い人。
翌日、ヒロモギたちは監督役から昨晩屋敷から抜け出した人間がいないか尋ねられた。何も見なかったとヒロモギと同僚は答えた。それ以上の追及はなかった。数日後、やんごとなきお方の娘がたびたび屋敷を抜け出すこと、数日たてば戻ってくること、今回も戻ってきたらしいことを風の噂で聞いた。「男がいるんだろうな」と話す仲間たちの会話にヒロモギは加わらなかった。ただ、少女の顔と声が脳裏から離れなかった。音が消えなかった。
ちりちり。
春が訪れ、ヒロモギの任期は終わった。給金を受け取り、簡単に荷物をまとめるとヒロモギは丘に立ち寄った。丘では桜が咲き始めていた。屋敷を眺める。
ここから離れれば、故郷に帰れば、疲れも取れるだろう。仲間たちはそう声をかけてくれた。炎からも解放されるさ。
炎。
揺らめく炎に重なるのは少女の顔だった。舞い上がる火の粉に少女の髪が揺れた。燃える木片の音は少女の声だった。
少女は炎だった。
日が昇り、オレは灰になった。夜通し燃やされ続け、それでも足りず、炎を求めた。
――お前は炎に憑かれてるんだよ。
憐れむような仲間たちの視線。そうだ。オレは憑かれていた。病気だった。でもこれからはまともな自分に戻る。
まだ色のない桜の花に触れる。ほの白く、冷たい、花。ヒロモギは指に花を乗せるようにしてそっと口づけた。風が吹く。
さよなら、悪い人。
声が聞こえた。風に騒ぐ花々の声かもしれなかった。ヒロモギはゆっくりと丘を下ると顔を上げ、眼を細めた。眼の奥で木片が燃え始めていた。
◆百人一首アンソロジー さくやこのはな参加作品
◆〇四九(大中臣能宣朝臣)
みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ
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